03 遠路はるばる希望の街へ
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パスポートの取得は驚くくらい簡単だった。薄暗い裏路地にある汚れた店、とかではなく普通に表通りに面した小綺麗な、さらに言えばチェーン店のような店から出てきた時には、私はピカピカの偽造パスポートを手に入れていた。
チェックインも検査も難なくパスして、飛行船の座席まで辿り着く。
途中、気がついたことがたくさんあった。文字や国名、飛行機の有無などだ。飛行機はあるにはあるが、飛行船の方が主流らしい。
「はあ? 読めない?」
俺でも読めるのに、とフィンクスは驚いていた。私もびっくりだった。まさか、これだけスムーズに言葉が通じるのに、文字が読めないなんて思わない。
「学校とか、通わなかったのか」
「通ったよ……記憶喪失って、思ったより厄介だね」
「……お前、楽観的だな。記憶がなくなると誰でもそうなんのか?」
「楽観的っていうか……今は、何も分からなさすぎて、何が不安なのかも分からないからかな」
「なるほどなあ」
フィンクスに関心されてしまい、微妙な心持ちになる。
目が覚めて以来、新しく思い出したことは今のところひとつもないけれど、この先徐々に回復したりするのだろうか。
飛行船は飛行機よりも乗り心地が良い気がしたが、窓の外を見ていると、スピードにかなり違いがあるようだった。フィンクスは、電話で数日内と言っていた。結構長い旅になる。
「ホームのあるところへは、乗り換えとかあるんだっけ?」
「飛行船下りたら、車だな」
「へ〜、都会? 田舎?」
「……まあ、田舎だ」
「ふ〜ん」
楽しみだな、と思って、確かにポジティブすぎるかもしれないと我ながら笑ってしまった。
何も暇潰しの道具がない私にとって、飛行船の旅は退屈だ。船内を歩いてきてもいいかと聞いたら、却下された。私はぶーたれて、窓の外をひたすらに眺めることにしたが、それも2分で飽きた。
「……おい」
腕を組んで足を組んで目を閉じて、地蔵のように向かいに座っていたフィンクスが、低く呼びかけてきた。
私は目だけでフィンクスを見て、続きを促す。
「………………いや、やっぱりいい」
「なにそれ、気になるよ」
「そのうちな」
私の声を無視して、それきりフィンクスは黙ってしまった。
私はしばらくフィンクスを観察していたが、怖い顔、という以外の情報を得られず、諦めてまた窓の外へ目を向けた。
途中トイレに行きたくなって立ち上がったら、フィンクスに腕を思い切り掴まれてお互いに顔を顰める(私は悲鳴もあげた)事件があったりして、トイレへは毎回フィンクスが着いてきたし逆に私もフィンクスに付き添ったが、それ以外は概ね順調に、飛行船は目的地へと飛んだ。
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そこは私にとっては見慣れない光景の続く場所だった。流星街という街らしい。
物珍しくてきょろきょろしていると、「やめろ」とすぐに頭へ手が飛んできた。その度にフィンクスも眉間にシワを寄せるのだから、いい加減に学習して欲しい。
私は口元から袖を離さないまま、もごもごと話した。
「あんまり言いたくないけど……酷い臭い」
「慣れる」
「うん……そう思うけど……ってわあああ!」
突然ぐるりと回った視界の中で、私に周りの視線が一気に集中するのがわかった。フィンクスの肩にまるで荷物のように抱えられた私は、滑稽に見えているのか哀れに見えているのか。
腹を打つ鈍い痛みに耐えきれなくて奥歯を噛む。
「ッい、痛い! 下ろして!」
「クソッ、お前、少しは体鍛えろよ! 腹痛え……」
「そう思うなら下ろしてよ!」
「お前の鈍足に付き合ってたら日が暮れるだろーが」
舌噛むなよ、という言葉を最後に、フィンクスは黙る。大股でずんずん進んでいるんだろうなと分かるのは、周りの景色が遠ざかる早さがさっきまでと全然違うからだ。初めのうちは痛んだ腹も、そのうち慣れて、周りを観察する余裕が出てきた。
ここは私の知る限り普通ではない様子の街だった。ゴミ捨場の中に一緒に建物も建ち並んでいるようなところで、不思議な感じがした。街行く人のほとんどは、白いゆったりとした服を頭から被っていて、あまり良く顔が見えない。そういえば戒律として顔を隠さなければいけない宗教があったよなあと思ったが、あれは女の人だけだったし、それとは理由が違うのだろう。
相変わらず控え目な視線をそこかしこから感じたが、フィンクスは気に留めていないようだった。
どのくらい歩いただろうか。私は図太いことにいつの間にかうたた寝をしていたらしく、フィンクスの着いたぞという言葉とともにソファの上に放り出されて、ようやく周りを見た。
そこはゴミの山や亀裂の入った壁や屋根、ボロ切れなどに囲まれた、広くも狭くもない場所だった。集会所、というのが一番しっくりくるかもしれない。少々風通しが良すぎて雨風がしのげる雰囲気ではないが、良く見ると、私が放り出されたソファの他にも、いくつかのソファが無造作に置かれていた。
「今着いた。おう、頼む」
フィンクスがソファに座った勢いで、スプリングが大きく軋んだ音を立てた。電話の相手は先日のパクという人だろう。
「ここがホーム?」
「ああ」
「あんまり、家って感じじゃないね」
「家じゃねーよ。ホームってのは流星街のことだ。ここは俺らの……そうだな、溜まり場みたいなもんだな」
広場の隅に転がったオモチャを見ている私に気がついたのか、フィンクスは鼻を鳴らした。
「まあ、ガキの遊び場にもなってる。そもそもが俺らの遊び場だしな」
「へえー子どものフィンクスかあ……想像し辛いなあ」
「しなくていい」
「ずっとここで育ったの?」
「うるせーな、だったらなんだよ」
「ただの世間話だってば。暇なんだもん」
「暇?」
フィンクスは突然険しい顔になったかと思うと、勢い良く私の服を捲り上げた。ワンピースを着ていたので、必然的に下半身が丸出しになる。
反射的に出た私の手は軽々と受け止められ、もう片方の手も捉えられ、何も抵抗できないままに、お腹の辺りに感触があってからそのショックでようやく口が動いた。
「何するのよ!! 触らないで!!」
耳元で騒がれたら流石に気に触るのか、フィンクスは私をじろりと一睨みすると、今度は遠慮なくガシガシと私の腹を触った。その手つきは乱暴で、少なくとも性的なものではなかった。
私にとってはとても長く感じた数秒の後、フィンクスは呆れた様子で口を開いた。
「脂肪しかねーな」
「な、な、」
「そりゃ腹も痛いはずだ」
「よ、余計なお世話よ……!」
「余計じゃないだろ、お前は俺みたいなもんなんだから、あまりに貧弱じゃ困るんだよ。暇ならとりあえず腹筋でもしてろ。しかし……」
フィンクスの沈黙に、嫌な予感がする、と思ったら次の瞬間には胸を鷲掴みにされていた。
フィンクスは私の悲鳴を聞いてもまったく意に介した様子もなく、余裕の顔でニヤリと笑う。
「まあ、そこそこだな」
私は思い切りフィンクスの足を踏みつけた。頭に血が上ってすっかり忘れていたのだ。
激痛に2人して足を抱えて、ソファの上で悶絶する。
「何しやがるテメェ!!」
「それはこっちのセリフよ……! 二度と私に触らないで!!」
「そんな無理な約束出来るか! 貧乳!」
「ふざけないでよこのエロオヤジ!」
「オヤジじゃねえよ!」
「エロも否定しなさいよ最ッッッ低!!」
「このアマ……!」
私たちはお互いに熱くなりすぎていて、こちらを見ている人影にちっとも気がつかなかった。
「何をしているのあんたたち」
待ちかねたらしいその人は、呆れ果てたような声音をしていた。