02 空港までのシャンゼリゼ
▽▽▽
 外に出ると、暑かった。蝉の声が聞こえないのが不思議なくらいだったが、そこでそういえば朝なのだと思い出した。
 行き交う人々は仕事へ行く途中だろうか。

「さて、ここから空港まで歩いて10分程だが、その間、お前の身の上話でも聞くか」

 時間潰しだろう。まったく興味がなさそうに言うものだから、いっそ清々しい。
 フィンクスが車道側を歩き始めたので、私は早歩きでその隣に並ぶ。

「身の上話……」

「適当に喋れ」

 フィンクスはすごく投げやりだった。
 私は私でかなり摩耗していたし、その気持ちは分からないでもなかったが、記憶がない分、私には色々と危機感や焦りが足りないような気がした。だからそれはいいとして、問題はむしろ、私の記憶がほとんど失われているらしいということの方だった。
 ホテルでは関連することを聞かれなかったので話しそびれた。言ってもいいものかどうか悩むが、身の上話を聞かせろと言っている以上、それがひとつも思い出せないのでは白状するしかない。

「え〜と……あ、じゃあ、まず、自己紹介を」

「あ?」

「名前、言ってなかったし」

「ああ、そういえば」

「ハルカです」

 フィンクスが不服そうに無い眉を寄せた。

「おい、フルで言えよ」

「……」

「おい」

 先延ばしにしようとした結果、失敗して一瞬で自分を追い詰めてしまった。もう、観念した。
 私は努めて、明るく言った。

「あはは、実は、記憶がなくて」

「…………へえ」

「だ、だから、覚えていることも、あまり多くなくて……」

「……」

「あの……フィンクス?」

「いや、そうじゃねえかなと思ってた」

「え?」

「あんな状況で、帰りたいだとか、ここは何処だだとか、そういうセリフが一個も出ずにのこのこ着いてくるから、頭悪いか訳アリかだろうとは思ったが、」

 フィンクスは笑った。

「両方だったな」

 初めて見たと思った普通の笑顔は、やはり馬鹿にしたものだったようで残念だ。
 否定はできないしなるほどと思ったが、人並みにあるプライドが邪魔をして私は唸った。

「お前その調子じゃ、すぐ騙されて拐かされるか殺されるかで、目が離せねえな。首輪とリードでも付けるか」

「そ、そんなに危険なところに……」

「あ? ここだってそう変わらねーよ。弱者は食い物にされるのが常だ。記憶がないって言ったな」

「う、うん」

「あの時わからないって言ったのは、そういう意味も含めてだな」

「そう、だと思う。混乱してたから、あんまりよく思い出せないけど……」

「他に何が思い出せる」

 年齢や名前は、思い出せた。あの部屋で目覚める直前、何か事故に遭ったような記憶もある。フィンクスのことを見た目で怖いと感じたのはそういう知識があるからだ。ホテルも、空港も、蝉とか、季節感も、そういったことは全部わかる。わからないのは、自分のことについて。私がいるということは、少なくとも父や母がいるはずだ。兄妹や友達もいたかもしれない。
 私は諦めて溜息を吐いた。からっぽという言葉が一番しっくりくる。

「……何も」

「そうか」

 フィンクスの返事は、淡々としている。私の記憶の有無には興味がないんだろう。フィンクスでなくても、当事者の私ですらどういう態度を取ればいいのかわからないくらいなのだから、他人は尚更だ。悲しいとか、そういうことを感じることができるだけの情報がなかった。
 フィンクスは私の少し前を自分のペースで歩きながら、色々と考えているようだった。

「まあ……記憶がないからこそかもしれねえが、お前の頭が悪いままだと俺の身にも危険が及ぶから言うがな、自分の弱味はそう簡単に人に見せるもんじゃない」

「弱味?」

「お前、素直に俺に記憶がないって告白したが、あんなもんいくらでも誤魔化せるだろ。記憶がないってことは、他人にあることないこと吹き込まれて、記憶を捏造される危険があるってことだ。あと、単純に騙されやすいしな。とにかく良いことはない。だからもう誰にも言うな」

「……」

 黙る私の考えていることが、フィンクスにはすぐにわかったようだった。大きな手のひらで肩を叩かれる。

「おい、俺は良いんだよ、俺は。俺だから」

「な、なにそれ! フィンクスに私が騙されない保証なんてないし、大体、フィンクスなんて見るからに悪そうじゃん!」

「おー、言うようになったな」
 
 あ、笑った。
 今度こそ笑った、と思って、急に嬉しくなった。だから、むしろもう騙されてるだろ、というフィンクスの言葉に反応するのが遅れた。
 フィンクスはうってかわって、面白くなさそうに私を見る。

「わかるぜ。お前、俺のこと意外と良いやつとか思ってるだろ」

 図星だった。

「な、なんで」

 言葉尻が震えてしまう私を見たまま、フィンクスは頭を掻いた。

「……お前、本当に大丈夫か?」

「え、え?」

「……」

 携帯のバイブ音が大きく響いた。
 私は私物ゼロの身一つだ。フィンクスは私に背を向けると、電話に出た。

「パクか。今どこだ……ホーム? 助かった。数日内に帰るから、待っててくれ。メールは見たろ、ちょっと相談してぇことが……ああ、ああ、分かってる、着いたら直接話す」

 そこでフィンクスが私を一瞥したので、なんとなく背筋が伸びた。何か問題でも発生したのだろうか。

「わかった、とにかく予定通り帰るから、よろしく頼む。じゃ」

 通話を切ったフィンクスは、恨めしそうにしばらくその画面を見つめていた。

「……今の、」

「仲間だ。いいから行くぞ」

 明らかに機嫌の悪くなったフィンクスは苛立ち紛れに勢いよく踏み出した歩みを数歩で止め、私を振り返った。

「……お前、パスポートは?」

 あるわけなかった。


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