01 出会い頭の不幸せな呪い
▽▽▽
 落ちるほんの一瞬の間に予想したよりも、随分と柔らかい衝撃だった。甲高い悲鳴がクラクラした頭に響く。
 私よりももっと可愛らしい声だ、とかろうじて分かる程度の意識の中で、この人も運が悪いなと同情した。

「一体何なの!?」

「うるせぇな……」

「どこから入ってきたのよこの子!」

 体の節々が痛み、強烈な睡魔のようなものに襲われる。眠いはずはないから、例えば麻酔をかけるように、痛みから逃れようとしているのかもしれないと思った。
 ただでさえぼんやりとした頭を持て余しているのに、登場人物が増えたことで、鈍った頭の処理能力がますます追いつかなくなった。私は私で、他に女と、男が一人ずつ。聞き覚えがない声だが、向こうの方は互いに知り合いらしい。

「ちょっと、早く起きて! まさか知り合いじゃないでしょうね!」

「知るわけねーだろ」

 意識がどんどん遠のいていく中で、言い争っているようだということだけがわかった。
 体を揺すられたような気がした。扉の閉まる荒々しい音も聞こえたかもしれない。めんどくせえ、というボヤきもあっただろうか。
 後のことは、何も覚えていない。





▽▽▽
 よく寝た、というのが最初の感想だった。
 思い切り伸びをして、目をこすり、焦点が合うのを少し待つ。薄暗い、ホテルのような部屋の中で、窓ガラスに映る自分の姿が見えた。空の端が僅かに白んでいる。

「……死んでない」

 発した声が耳に入って、余計に実感する。
 そう、死んでいない。私は事故で死んだと思った。あまりよく思い出せないが、確か橋の上……いや、交差点……。
 そこまで考えて、ようやく違和感の正体に気がついて合点がいった。
 私の記憶はゴッソリと抜け落ちていた。楽しかった気がするのに何が楽しかったのか思い出せないし、事故だという確信があるのにそれはどのような経緯で起こったものなのか思い出せなかった。死んだと思ったら生きていたということだけが、取り敢えず分かった。

「起きたか」

 心臓が止まるほどの心地がして振り返ると、大柄で人相の悪い男がグラスを片手に薄く笑っていた。

「いくつか聞きたいことがある」

 腰にタオルを巻いただけの男は、リラックスした様子で乱暴にベッドへ腰掛けた。石鹸の匂いとスプリングの大きく軋む音が私の恐怖心を煽る。
 男を見るのも、見ていないのも怖くて、じっと見つめることしか出来なかった。と言って、視線を合わせることも出来なかったので、その足元辺りに視線を泳がせていた。
 記憶が抜け落ちているらしいこともあって状況がまったく理解できなかったが、死んだ方がマシだったのではないかという気さえしてくる。ホテルの部屋に強面で裸のいかにもな男と二人きりというのは、それくらい平々凡々に生きてきた私には刺激の強すぎる展開だった。

「おい、こっち見ろ」

 言いなりになるくらいしか防衛手段がない私は、素直に顔を上げ、一度静かに深呼吸をしてから男の目を見た。

「お前歳は?」

「……21」

「21? せいぜい16くらいにしか見えねぇな」

「……」

「まあどうでもいいか。ああ、質問だったな」

 男がサイドテーブルにグラスを置く音がやけに高く響き、そちらに気を取られている間に急に部屋の空気が物理的に圧力をかけられているのかと思うほどに重くなった。
 読める空気が重くなることは多々あれど、実際に手に掴むことのできないものに圧迫されるという状況があり得るものだろうか。最初は誰かに後ろから押さえられているのかと思ったが、体中にまんべんなく感じるこの重さは、そういったものとは別のものであるように思えた。
 思わず呻き声が出て、苦しくて床を見つめることしか出来ないでいると、強く顎を掴まれて無理矢理に上を向かされた。苦しくて、喉が詰まる。
 男の眉間には深くシワが刻まれていた。

「どうやってこの部屋に入ったのか、何の目的で入ったのか、俺に何をしたか、だ。答えろ」

「……っ」

「早く!」

「……う……と、その、……気がついたら、ここにいて、私にも……よく、わからなくて……目的なんて……さっき目が、覚めたばかりで……何が何だか……」

「俺に何をした」

「な、何も……何もしてません……何もしてません、けど、気がつかないうちに何かしてしまったなら、本当に、すみません……」

「……」

 息切れしながらなんとか答え終わると、ようやく謎の圧力から解放された。
 男の顔色が優れないのはすぐに分かった。

「最悪だ」
 
 抑揚なく言って力なく私を見る男からは、先程までの迫力が感じられない。まったく意味不明な状況だった。
 男は続ける。

「いいか、よく聞け……オーラを無意味に垂れ流しているところを見るとお前はまったくの念能力初心者だ。トボけてる可能性も考えて念のため圧力をかけて反応を見ても何の抵抗もないことからそう仮定したとして、何故か俺にお前の念がかけられてる。オーラを纏うことも出来ずに垂れ流し続けているお前にだ」

「……す、すみません、言っている意味がよくわかりません……つまり、どういう事でしょうか……」

 男は大きく舌打ちした。

「……今すぐぶち殺してえところだがそうもいかねえからな」

「え……」

「つまり、そういうことだ」

 男は私の反応を注意深く見ているようだったが、立ち上がると早着替えのようにそばに置いていたジャージをまとった。私はといえば、話が完全に理解の範疇を飛び出して、殺すという暴力的な言葉に怯えるばかりだった。
 男の手が私の方に伸びた次の瞬間、真っ白な湯気に包まれたように視界がホワイトアウトした。

「わ、やだ、死にたくな……わーっ!?」

「やっぱり精孔の開き方が中途半端だったな……おい、いいか、俺の言う通りにしろ」

「な、何ですかこれ!? 何が起きて……」

 今度の圧力は、刺すような鋭さだった。

「殺されたくなかったら、俺の言う通りにしろ」

 まるで頭の悪い犬にでもなったよう気分で、私は恐怖のあまり押し黙った。





▽▽▽
 ぐったりしている私のために、男、もといフィンクスは、飲み物と食べ物を持ってきてくれた。
 ようやく人心地がついたころ、フィンクスは不機嫌の極みといった顔でとりあえず自分が把握していることを話してくれた。内容は突飛で、にわかには信じがたいことばかりで、他にもツッコミどころが多かったが、そうすることでしか先に進めそうもなかったし口を挟む勇気もなかったので黙って聞いた。

「ええっと、私が受ける苦痛がフィンクスさんにも現れる……ってこと、ですよね?」
 
 フィンクスは何度目かわからない溜息を吐いて、頷いた。

「おそらくな。お前のそれ」

 私の首を指差す。

「お前のせいで目覚めが最悪だったし、腹いせに殺してやろうかと思って掴んだら、こうなった」

 今度は自分の首を差したフィンクスの指を辿ると、そこには手のひら型に青々とした痣が浮かんでいた。同じものが私にもあるらしいと知ってゾッとする。そういえば痛いなと思っていた。

「気がつくのがもう少し遅かったらお互い首の骨が折れて死んでたかもな」
 
「そ、そうですね」

「苦痛って言っても、そこに生死まで含まれるのか試す気にはなれねぇからな」

 先程からずっと生きた心地のしない話が続き、私の精神は苛まれていたが、少なくともこの男に殺されることはないということだけは朗報だった。
 私は首が痛いのも忘れて力強く頷いた。フィンクスは歯牙にもかけていないだろうが、私の精一杯の意思表示だ。痛いのも死ぬのも真っ平御免だ。

「……とりあえずホームに戻って、なんとかならねえか誰かに相談するしかねぇか。お前が自分の念能力を自分でもコントロール出来ていないとしたら、そこをなんとかすりゃどうにかなるかもしんねぇっていう希望的観測もあるしな」

「ホ、ホーム?」

「俺の故郷だ。仲間と落ち合うならそこが一番いい。誰か暇してる可能性もあるしな」

「仲間、」

「似合わねぇって言いたげだな」

「え! あ、す、すみません、決してそういう意味では……!」

「はぁ? 何謝ってんだ」

「いえ、あの、……その」

 フィンクスからの視線を痛いほどに感じて、私の顔は斜め下の方へふらふらと逃げた。
 怖すぎる。顔が怖いのは勿論として、雰囲気というか、もうなんか、色々全部が怖すぎた。同じ空気を吸ってここに存在出来ているだけでも奇跡のような気がしてきて、十数分前のわたしは何故この男の前で食べたり飲んだり出来たのか不思議でしかなかった。おそらく、腹が減っていたんだろうとは思うけれど。

「お前よ」

「は、はい」

「敬語やめられるか。つーか、やめろ」

「……は、」

「あと、いちいちビビるのもやめろ。ただでさえムカついてんのにこれ以上煽るな」

「……」

 とんでもない無理難題だった。この状況で、この男を前にして、普通の神経をした人間にはそんな要求を即座にクリアするのは不可能だ。多分、フィンクスも十分にそれをわかっていた。
 堪えるようにまたひとつ溜息を吐いて、フィンクスは続ける。

「さっきから言ってるけどな、死ぬほど腹立つことに、俺にはお前を殺せねえ。だから、俺に怯える必要はねーし、むしろその方が殺したくなるし、っても殺せねぇんだけどな。とにかく、苛つくから今すぐやめろ。わかったか。わかったな!」

「わっ、わかった!」

「……及第点だ」

 とても及第点に達したと思っている顔ではなかったが、人間諦めも肝心だということを思い出してくれたらしかった。
 ひっくり返った返事をした私に背を向けて、フィンクスは身支度を始めた。大雑把に少ない荷物をまとめて、乱れたシーツや散らかったゴミはそのままに立ち上がる。私はすることもないのでぼうっとその様子を眺めていたが、鞄の端から口紅が転がり落ちたのを見て、なんとなく目を逸らした。

「ああ、あとな、お前、言っておくが、細心の注意を払って怪我を避けろよ」

 でないと殺すぞ、とフィンクスは私を脅した。
 殺したら自分も死ぬかもしれないから殺せないのではなかっただろうか、と冷静な私と、凄みに耐えられず今にもチビりそうな私がいた。
 「殺す」が口癖になっている人間は多くいる。フィンクスは果たしてどちらなのだろうか。
 私は覚悟の意味も込めて、不安や疑問を押し殺し、大きく頷いた。

「うん、わかった」


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