09 雨降って地固まればよし
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雨の日に気まぐれに捨て猫を拾うヤンキーをフィンクスだとすれば、この男は雨の日に気まぐれに捨て猫を殺しかねないエリートサラリーマンだ、と思った。直感で、なんとなく。もしかすると拾われた方の捨て猫も程なくして同じ運命を辿るのかもしれないが、捨て猫にとっては幸運なことにその捨て猫とヤンキーの間にはお互いを守らざるを得ない事情があった。……まあ、そもそも拾われたのも、拾わざるを得ない状況だったからと言ってしまえばそれまでだが。
私が載せられていたのは、大きな飛行船だった。停泊している広場ではそこら中で怒号が飛び、まるで市場のようだと悪い冗談のような感想が浮かんだ。以前牧場で、犬に小屋へと追い立てられる羊を見た記憶があるが、そのまま羊を人間に置き換えたものが目の前で行われていた。羊たちには、あまり目立たないが手枷が嵌められている。自分も先ほどまでそのうちの一人だったのだと自覚すれば途端に足取りが覚束なくなる感覚に襲われたが、堂々とした歩みで船を降りていく男の後ろになんとかついて歩けば、誰に呼び止められることもなかった。
飛行船も随分と後ろになったところで、私はようやくそこが流星街ではないことに気が付いた。
男は、ヒソカと名乗った。確かに聞き覚えのある名だ。そう聞くと、男はにいと笑んで嬉しそうに私の方を振り返った。
「そうかい? ふうん、どんな噂だったのか気になるなあ◇」
重要だった気がして、私も思い出そうとすこし頑張ってみたのだが、どうにも思い出せない。おそらくフィンクスたちの話を横で聞いていただけなのだろう。
「内容までは……」
「ああ、いいよ、別に◇ 聞かない方がいいこともあるしね◇」
「はぁ……ところで、ここ、何処ですか……流星街じゃないですよね」
狭い、裏道のような通りを抜けるとそこそこ賑わった大通りに出た。行き交う人々も街並みも、端的に言うならば、普通、だ。流星街とは比べるべくもない。
「隣町と言えばいいのかな? ここはあの街が近いせいか、特殊な産業が発達していてね……さっき見ただろう? 彼らはこれから様々なルートを通じてご主人様と巡り合うことになるんだよ◇」
「……人身売買、」
「有り体に言ってしまえばそうなるね◇」
飛行船の外で見た手枷を嵌められた羊たちは多種多様だった。これから先、彼らを過酷な運命が待ち受けるのだと考えると同情を禁じ得ない。それは例えばテレビで見た惨事に対してのもののように生温い実感ではなく、ひりひりと肌に感じる決して他人事ではないという焦燥感を伴っていた。
ヒソカを見上げて、私は心底からの礼を伝えた。するとヒソカはまた、嬉しそうに笑う。
「君、罠から助けてやった野生動物に噛みつかれたことはある?」
「……え?」
「彼らの方がまだ賢いってこと◇」
どういう意味だろうか。考えあぐねていると、立ち止まったヒソカに後ろからまともにぶつかってしまった。打った鼻がツンと痛む。見上げれば、彼は彼方に眼を細めて楽しそうにしている。
「お迎えが来たようだ」
「迎え?」
「そう、お迎え◇ ちゃんとメールしておいたからね◇」
多分、フィンクスのことだろう。そう思って前に目を凝らしてみたが、姿は見えない。にも関わらず、ヒソカは「少し休憩しようか」と言って手近な店へ入ってしまう。そんなところにいたら見つけてもらえないのではと思ったが、庇護を受けた手前無下にもし辛く、大人しく続いて扉をくぐった。
窓際のテーブル席に陣取り、頼んだコーヒーをお互い一口啜ったところで、ヒソカは話し始めた。
「さて、僕は君自身にはこれっぽっちも興味がないし、実は今からそこの路地で死んでしまったってそんなことは昨日の天気よりもどうでもいいと思ってる◇」
……なんだって?
私が絶句しているのには露ほども構わず、さらにヒソカは話を続ける。
「そんな道端の石ころほどの存在感もないような君がどうして蜘蛛と関係を持っているのか、とても不思議でちょっと半信半疑だったんだけれど、あの様子だとどうやら随分とご執心のようだ◇ そうなると、今度は少しだけ興味が湧いてくる◇」
「……」
「君、何者なんだい?」
それはまた、今の私には難しすぎる質問のような気がした。私が何者かなんて、一番知りたいのは私の方なのだから。
私の目が遠くを見るのに気が付いたのだろうか、ヒソカは「……どうやら地雷を踏んでしまったようだ◇」と軽く笑って謝った。意外と人の機微が分かるらしい。別に、謝られるようなことではないのだけれど、答えるまで帰れないような雰囲気があったので呆気なさに少し驚いた。
「察するに自分の事をうまく把握できていないようだ◇ オーラも不安定だしね◇」
コーヒーはまだほとんど残っているのに、代金を私の分も置き、ヒソカは席を立つ。
「フィンクスに会うと色々と面倒だからボクはこれで◇ 彼によろしく言っておいてくれよ、ボクは君の命の恩人だってね◇」
そう言い置いて、ヒソカは姿を消した。雑踏に紛れてしまえば、オーラも感じ取れなくなる。
ここ一時間ほどの出来事があまりに突飛に過ぎて、私はまるで狐に化かされたような気分でコーヒーをまた一口啜った。
▽▽▽
「無事か!!」
喫茶店に駆け込んできたフィンクスは、開口一番そう叫んだ。ヒソカが姿を消してから、数分後の事だ。私も温かいコーヒーを飲んだからか随分と気分が落ち着いていて、フィンクスの顔を見てケンカの原因を思い出せた。
「……無事なのは、フィンクスなら分かるでしょ」
「可愛くねえことを……おい、まだ怒ってんのか?」
どかどかどかと歩み寄ってきたフィンクスは、先ほどまでヒソカの腰かけていた椅子に、彼とは正反対の荒っぽい動作で腰かけた。椅子が悲鳴を上げるのが聞こえるようだ。
怒っているに決まっている、それをフィンクスも分かりきった上で、まるでまだ怒ってる私の方が心が狭いみたいな言い方をするものだから、余計に腹が立った。口を開けば喧嘩が悪化しそうでだんまりを決め込むと、フィンクスは長い溜息をついて私の腕に触れ、そのまま逃げないようにと掴まれる。振り払おうとしてもびくともしない。
「落ち着けよ。お前が怒ってるのはわかったから。ヒソカに助けられたのか?」
「……うん」
「何もされてないな?」
「……多分」
「……」
疑わしげな目で私を観察するフィンクス。確かに、念でもかけられていればそれを私に判断するだけの能力はない。フィンクスにとっては、私が奴隷船に連れて行かれそうになったことよりもよほどヒソカと接触した事の方が大問題らしかった。
しばらくして、腕が解放された。
「勘ぐっても埒が明かねえな。もし何かあればとっ捕まえてぶん殴りゃ済む話だ」
「……あの人のオーラ、すごく嫌な感じがしたけど、でも仲間なんでしょ? 私が……」
「あ? なんだよ」
説明しようとして、思い至った。私は助けを求めて、フィンクスの名を呼んだのだ。だからこそヒソカが助けてくれたのだが、そんなこっ恥ずかしいことを本人に言えない。まして、今は喧嘩の真っ最中のはずだ。
私の顔が赤いのに気が付いたのか、フィンクスはとんとんとんと机を指でたたく。
「……やっぱり何かされたのか」
言い方が居酒屋で酔っぱらうオヤジのそれだ。
「ばっ……! されてない! 今、何想像したのよ!」
「別に、お前が無事で俺が無事なら、俺が口を出す話でもないが。趣味は悪いなと言っておこう」
「フィンクスには言われたくないわよ!」
「そーかい。さて無駄話は終わりだ。帰るぞ」
座った時と同じように乱暴に立ち上がり、フィンクスは一足先に店を出た。代金は既にヒソカが机に置いていてくれたので、私も店員に御馳走様と挨拶だけして慌ててその後を追いかける。
「そういえばお前、奴隷商人にさらわれたって?」
「……う、うん。ちょっとぼーっとしてて……」
「らしいっちゃらしいな。そいつらも獲物を見る目はあるってことだ」
からから笑うフィンクスは、あまりにいつも通りすぎてなんだか気に入らない。
「もうちょっと心配してくれてもいいんじゃないの?」
ぽつりと不満を口にすれば、フィンクスの方も不満気に私を振り返った。
「十分心配してやっただろうが。ここまで全速力で走らせといて、まだ足りねえってのか」
そう言う顔はやはりいつも通りで、呆れているということだけが伝わる。その心配が何に向けられたものかなんて、もちろん、勘違いしてはいけないが、それでも。
「……許してあげる」
「あ?」
「でも、もう一度言ったら今度こそ許さないから!」
「……」
「何よその顔は」
「……いや、そういうとこが……なんでもねえ」
ひょい、と私はフィンクスに担がれる。これはいつかと同じ状況だ。
「おお、腹筋が鍛えられたな」
「そんなに遠いの? ここから流星街って」
「そこそこな。お前の足に合わせていたら日が暮れる」
それもどこかで聞いたセリフだ。
私はフィンクスの肩の上で、フィンクスに見えないのを良いことに小さく笑った。どれだけ腹が立っても、フィンクスといると安心する。それはもう疑いようのない事実だった。