07 少しずつ前へ離れてゆく
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「ちょっとここに手、かざしてみろ」
シャルナーク襲来から早数週間、ベランダで念の修行に励んでいた私の前に、ドン、とフィンクスがグラスを置いた。中には透明の液体が入っていて、小さな葉が浮かべられている。
「……なにこれ?」
「水だ。いいから言うとおりにしろ」
「はいはい」
ひょい、とグラスの上に両手を持っていくと、それを見たフィンクスは怖い顔をして小さく舌打ちした。さっきから一体何なのだ。
「そうじゃねえ。オーラを出すんだよ。練だ練。いいか、見てろ」
説明不足の上に短気なフィンクスが私の手の上に重ねるように自分の手をかざすと、ぴり、と一瞬のうちにフィンクスのオーラが増幅されるのを感じた。水音がする。見ればグラスの水が間欠泉かという程に大洪水を起こし、ベランダを水浸しにしていた。
フィンクスは流れ出した葉を拾い上げると、グラスに戻した。
「わわっ、ちょ、なにこれ手品!? あ〜もう! 服が濡れたじゃない!」
「手品じゃねえ。こうやって、念の系統を調べるんだ。水見式って言うらしい」
「何の為に? あ〜べちゃべちゃ……靴履いてなくて良かった」
「念の基礎は全部教えたからな。それプラス、系統に合わせた修行とかがそろそろ必要なんだよ。早く解放されたいだろ、この生活から」
促すように、水から逃げ出した私の前に、フィンクスが再びグラスを持ってきた。私はベランダのふちに腰を落ち着け、念のためグラスからは少し距離を取り、見よう見真似でもう一度手をかざし、練をした。
ちょろちょろ、とグラスから水が溢れはじめる。それを見たフィンクスが、さも驚いたというようにグラスを覗き込んだ。
「特質系じゃねえのか?」
「え?」
「お前が俺にかけてる念は特徴からして特質系っぽいだろ? つーか、他の系統に当てはまらねえから特質系っぽいってだけの話だが……」
「よくわからないけど、特質系じゃないなら私の念の系統はなんだったの?」
「強化系だな」
「ふーん。なんか強そうだね。じゃあフィンクスは?」
「同じだ。さっき見てたろ」
「え…え? でも私のと全然……」
爆発的に水を溢れさせていたフィンクスと、私の念の系統が同じ、というのがあまりピンと来なくて首を捻ると、フィンクスがバカにしたように鼻で笑うのが聞こえた。
「俺とお前を比べんな。とにかく、水が増えりゃ系統としては強化系なんだよ。水の味が変われば変化系、色が変われば放出系って具合にな。喜べ、強化系は六系統の中で一番扱いやすい。今日からはこのグラスも修行に追加だ。目標は勢いよく水を溢れさせること」
それだけ言い残して、フィンクスは水を跳ねさせながら部屋に引っ込んだ。
ベランダに溜まった水が排水口のところで渦を作っているのを眺めながら、私は暢気に、念ってまるで魔法みたいだなと考えていた。
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水の溢れ方がちょろちょろからじょろろろに進歩したころ、フィンクスからルール緩和のお許しが出た。日中に限り、フィンクスから離れて行動しても良いらしい。今までも部屋で留守番などは何度もしていたが、一人で出歩く許しが出るとは思っていなかったので少し驚いた。
「もしかして、私、結構強くなった?」
ドヤ顔を披露すれば、冷たい視線で一蹴される。
「馬鹿言うな、俺の都合だ。お前の子守はじめてからもう一ヶ月は経つだろ。俺の方が限界なんだよ」
色々とな、とフィンクスは言って、早速出掛けようとする。
流星街に帰ってきてからは部屋の隅で埃を被っていた、初めて出会ったときに持っていたカバンをフィンクスが手に取ったので、私は慌てて後について玄関の外へ顔を出した。
「どこ行くの?」
「さあな。数日で戻るが、何かあればパクに言え。昨日見かけたからまだいるだろ」
「……危ないことしに行くの?」
何故か、私の声が響いた。言ってからしまったと思ったが、取り消しは出来ない。
階段の途中で振り返ってこちらを見上げたフィンクスの顔はいつも通りの仏頂面で、少し不機嫌そうだ。私に呆れているのがよく分かる。
「アブナイコト、ってのはなんだ? ドロボーか? ヒトゴロシか?」
「……え、っと」
「生憎だが、俺にとっての一番のアブナイコトは、お前を一人にしておくことだ。それとも、“ワルイコト”するなって意味か?」
「ち、ちが、」
これだ。背筋が凍るような心地がした。私とフィンクスを結びつけているのは切ろうと思っても切れない念で、それでも私は一緒に過ごすうちに打ち解けてきていると感じているのに、フィンクスはたまに思い出したように冷たく突き放してくる。私とフィンクスの間には分厚い壁があることを思い知らせてくる。拒絶されているのだ。私にそう思わせる。
「違わねえだろ?」
そう言うフィンクスの声は私には本当に冷たく聞こえて、怖くて顔を見ることが出来なかった。
「……まあ、どうでもいいがな。大人しくしてろよ」
フィンクスは朝靄の中へ消えていった。私はその背が見えなくなってもしばらく、そのままフィンクスが消えた辺りをぼんやりと眺めていた。
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フィンクスが出掛けたいと言うので、パクノダは仕方なく再びホームに戻ってきていた。フィンクスの代わりにハルカを守るためだ。
フィンクスがホームにハルカを連れてきてから一ヶ月が経つが、その間にホームを訪れたのは幸いにもシャルナークだけのようで、シャルナークには恐らく何かしらバレた気もするが、今のところ彼らの秘密は守られている。
マチはあれで守銭奴なところがあるのでシャルナークの危機が去った後すぐに仕事に出掛けたが、パクノダはなんとなくしばらくの間二人を見守っていた。しかしそれも三日を過ぎた頃に取り越し苦労だったと気づき、もっと過ごしやすいところでゆっくりしようと思い、二人に別れを告げて流星街を後にした。そろそろ仕事でもしようか、という頃、フィンクスから帰ってきてくれと連絡があった。
「ハルカと何かあった?」
ハルカを頼む、と出掛けしな言いにきたフィンクスは、ちょっとらしくない顔をしていた。
言いながらちょんと体に触れてやると、聞かずとも全てが把握できる。
「また泣かせたのね」
「あってめ勝手に……! ……泣いてねえだろ」
「涙が出てなきゃ泣いてないってわけでもないのよ。わからないでしょうけど。それにしても、あんたも不器用よね。いちいち傷つけなきゃ距離の取り方も分からないの?」
ぐうの音も出ない様子で、フィンクスは黙る。
「重症ね」
「……お前も、あいつと四六時中顔付き合わせてみろよ、警戒心のカケラもなく懐こうとしてくんだぞ。俺が幻影旅団だって知ってもだ!」
「まあ、実感はないでしょうね。私達が人を殺すところも、盗みに入るところも見たことがないんだから」
フィンクスは他にも色々と言いたそうにしたが、考えがまとまらないようで、一言だけ吐き出した。
「……鬱陶しいんだよ」
言葉の裏の気持ちが隠しきれていない時点で距離を取ることにそれ程の意味はないようにパクノダは思ったが、その気持ちは分からないでもなく、ただ「そうね」とだけ呟いた。