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 初めにその男を見たのは、警察官になる前だった。
私の実家はパン屋で、近所では美味しいとちょっと評判の店だった。遠くからわざわざ買いに来る客もいる程だったが、祖母が一人で切り盛りしていたこともあり、生活に困らない以上の収入にはならなかった。私は大学を卒業するまでの間、店をほぼ毎日手伝っていた。
確かあれは雨の夜、もう閉店というところに、傘も差さずに濡れ鼠になった男がふらりと来店した。男は匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしたとおもうと、慣れない手つきでトングを持ち、かごに食パンと菓子パンを入れて私のところへ持ってきた。
 見た事のない顔だ。濡れて張り付いた黒髪の間から覗く伏せた睫毛は長く、まるで絵画か彫刻のようで、思わず見惚れる程の美形だ。彼が美術館に飾られる美術品の一つであれば、立ち止まって数分は眺めることになるだろう。もしかすると、もっと長いかもしれない。
 私はそんなことを考えながらも手際よくパンを包み、釣り銭を返しながら、何の気なしに、

「毎日、朝と昼に焼きたてのパンを置いていますので」

 と言った。
 そこで初めて男と目が合った。吸い込まれそうな深淵をたたえた黒い瞳をしていた。

「……このパンを焼いているのは君?」
「え? あ、いえ、私の祖母が一人で。教わってはいるのですが、中々」
「そうか……頑張って」
「ありがとうございます」

 包み終えたパンを渡すと、男は雨など気にもならないというふうに、今度はしっかりとした足取りで夜の雨の中へ消えていった。
 次に見たのは、数年後、私が警察官として警備の任務にあたっていた時だった。一度見たら忘れられないほどの美形だったので、その時はすぐにわかった。と言っても、久しぶりとは感じなかった。男はあの夜に私がパンが焼けるのは朝と昼と教えたからか、主に私が学校へ通っている時間帯、時たまパンを買ってくれていたらしく、祖母が「とても綺麗な顔をした人がね」とそのたびに報告してくれた。クロワッサンを買っていったとか、サンドイッチを買っていったとか、祖母はどうやら男のことをいたくお気に入りのようだった。つい先日にも、来店の報を受けている。だからだろうか。男が偶然にも私の目の前を通った時、考える間もなく、反射的に声をかけていた。

「あ、あの!」

 男は数年前の記憶とは異なり、髪をオールバックにしていて、額には印象的な正十字の刺青があった。冷たい視線に射抜かれ、声をかけてはいけなかったことだけがすぐに理解できた。しかし、時間は巻き戻らない。その場で凍りつき二の句がつげないでいる私に、一緒に警備にあたっていた同僚が軽く小突いて応援してくれる。逆ナンパしていると思ったらしい。

「い、いつも、パンを買っていただいてありがとうございます……って言っても、分からないですよね、ごめんなさい……昔に一度だけ店員としてお会いしたことがあるんですが、祖母がパン屋をしていて……えっと……」
「知り合い? 長くなるなら先行くよ」
「いや」

 連れの金髪の男が携帯を弄りながら、時計を見た。急いでいるようだ。
 男は私をもう一度上から下まで眺めて、ふむ、と納得したようだった。

「ここで何をしている?」
「あ、警備を……見ての通り、警察官をしているので。今ちょうど、そこの美術館にとても貴重な品が展示されているんです」
「そうか……パン屋を継ぐのかと思っていた」
「いずれはそうなるかもしれませんが、警察官も私の夢だったんです」
「正義感が強いんだな」
「祖母譲りです」
「ところで、パンは焼けるようになったか?」

 一瞬、肌がぞわりと粟立った。男は静かに私の答えを待っていたが、あの時、深淵だと感じた瞳に、今度こそ飲み込まれるような心地がした。
 私はなんとか意識を集中させて、間違えないように慎重に答えた。

「……はい、祖母のおかげで。叩き込まれましたから」
「それは良かった」

 男は私の答えを聞くと、微かに微笑み、満足そうにして美術館の方へ去っていった。
 数時間後、私は阿鼻叫喚の事態に陥る美術館に飛び込み、そこで男の姿を見た。私はすぐに意識を失ったが、直前に、「こいつだっけ、団長が殺すなって言ってたの」という声が聞こえたのを覚えている。
病院で目を覚ました私は、立ち向かった多くの警察官が殺され、貴重な美術品も奪われたことを知った。犯人は、その手口などから、幻影旅団というA級の賞金首ではないかと言われている。目撃者は全員殺されてしまったのか、証言もなく、もし本当に相手が幻影旅団であれば危険なこともあり、捜査は早々に打ち切られていた。警察の手に負える相手ではないという話だった。あの日、一緒に警備にあたっていた同僚も殺されていた。

「退職します」

 数週間後、私が差し出した退職願を見て、上司は多少驚いたようだったが、何も言わずに受け取ってくれた。事件以来、退職願いが後を絶たないのだ。

「この後はどうするつもりなんだ?」
「祖母がパン屋をやっているんです。もう歳なので、キツイ日もあるみたいで。手伝いながら、そのうち私が継がせてもらう予定です」
「ああ、そうだったな。君のおばあさんの作るパンは本当に美味しい」

 私物をまとめて宅急便で送り、細やかなものはカバンに突っ込み、数年働いた警察署を後にした。よく晴れた日で、新しく踏み出すには良い日だった。
 数年ぶりに店先に立つ私を見て、祖母はとても喜んでくれた。店を継ぐという私の考えを聞いて、パン作りについても妥協を許さない姿勢でもう一度叩き込んでくれている。
 私が警察官を辞めたのは、ある確信めいた考えがあったからだ。あの男は、犯人だと言われている幻影旅団の一人に違いない。そして、私が殺されなかったのは、彼が祖母のパンを気に入っていたからだ。祖母のパンを継ぐ私を殺してしまっては、おそらく先の短いであろう祖母亡き後、パンが食べられなくなってしまう。そんな単純な理由で、私は生かされた。近いうちに、彼はパンを買うためにこの店へやってくるだろう。そうでなければあの日、私に問いかけ、私を生かした意味がない。
 私は祖母のパン屋で、彼を待つと決めた。正義感のためではなかった。生かされ、パンを作るようにと脅すように促されたからでもない。ただ、話がしたいと思った。

「こんにちは」

 数日後、あの日とはうって変わって、天気の良い青空の日、男は笑顔でそこに立っていた。







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