かりぬる
だけど、知ってしまった。
藍色と青色は“違う”ことを。
▼
「あ、皐月さん」
廊下を歩いていたら後ろから声を掛けられて足を止めた。
もうオレンジ色に染まった空。
学校にいる生徒は部活動で運動場と体育館にいる生徒のみだろう。
私以外は。
英語の補修を受けていた私は、英語の教師である女の先生にやっと解放されて教室に向かう途中だった。
「…なんでしょう。」
振り返った先には、
「ちょっと、手伝ってもらっていいでしょうか。」
職員室の扉の前にいる先生だった。
「……なにをすればいいんですか?」
「この、扉を閉めて貰ってもいいですか?
…僕はこの通り、荷物が多くて扉が閉められなくて…」
困ったように眉を下げる先生。両手には、大きな段ボールは二つ。
私は
「もちろんです。」
笑って先生の下へかかとを返して扉を閉めた。
「皐月さん、ありがとうございました。」
ふわっと笑う先生。教室までの道のりに少ない会話をした。
男の人なのに、こんなに癒されるのはなんでだろう。
こんなにも、ドキドキするのはなんでだろう。
「いえ、先生とお話できてよかったです。」
▼
真っ青な空に手を伸ばす。届きそうで届かない。それが空。
そんな空の今の顔をコバルトブルーというのかもしれない。
中1の頃、美術の先生が力説していた、あれ。
鬱陶しかったから無視していたけど、今ちゃんと思い出せるのは思いのほか私が聴いていたからだろう。
この、いらない記憶をぜひとも数学や英語に使ってほしかったな。
赤点免れるのに。
「サッキー!やっほーやっほー!」
「……うっさい、タク黙って」
「ひっど!ねえひどくない!?俺、扱いひどいよね!?」
「…うっさい、一回じゃわからないの?うるさいって言ってるの。」
「ひどいッ!二回も言わなくたってわかるよ!大体サッキーは―――」
私の隣の席のタク、こと山路巧(ヤマジタクミ)をにらみつけて机に突っ伏す。
隣でギャーギャーとタクが騒いでいるけれど無視。そのまま私は深い眠りに落ちた。
サッキーと呼ばれるのは嫌いじゃない。
ただ、隣でギャーギャー騒がれると、常に寝不足な私には安眠妨害で腹立たしい。
夢なんてものは見ずに目が覚めたのは、空がオレンジに染まったころだった。
「あ、起きた?おはよ―」
伏せていた顔を上げた私に気が付いたのか隣から女子特有の高い声が聞こえた。
鼻に着くような声だけど、聞きなれたこともあってもう何とも思わない。
「……リサ」
「寝すぎ。もうみんな帰ったよ。」
「ん……」
まだ眠くて完全には起きていない頭で、机にかけてある鞄をつかんで立ち上がった私。
「あ…」
隣でリサの焦った声が聞こえたとほぼ同時に、大きな音共に頭に激痛が走った。
その場でうずくまった。……痛い
「―――皐月、無事…?」
「……ん」
「大丈夫に見えないのは、私だけ?なわけないよね。ってことで保健室行くよ。」
リサに腕をつかまれた。なされるがまま連れて行かれる。
「私、漫画以外でガラスに頭突っ込んだ人初めて見たよ。」
私の頭と接触したのは、どうやら窓ガラスだったらしい。
足がふらっとしてそのまま、タクの席とは反対側のガラスとご対面したらしい。
寝起きのせいか、保健室についたころには、自分がガラスにどうやってぶつかったのかはっきりとは覚えていなかった。
リサの説明を聞いた保健室の先生は、爆笑して、ヒーヒー言いながら氷の入ったビニール袋をくれた。
「高2にもなって、頭に氷乗せて下校してる人ってどうなの、ねえ。」
「……リサが保健室に連れていったんじゃん。」
「まずぶつかったのは皐月でしょ。」
自転車を押すリサと、徒歩の私。
リサが私の右で、私を憐れむ視線を送ってくる。
悔しいけど、無言でリサを睨むしかなかった。
「リサが言ってくれれば……」
「私が言おうが言うまいが皐月はガラスにぶつかってたと思うけど」
「………そんなことない。」
「否定ははっきり言わないと否定にならないんだよ。」
だから、その憐れんだ目やめてよ。
私はリサから視線を逸らした。
▼
先生と初めて出会ったのは、中1の夏。
引きずられるように連れてこられた文化祭。
リサの志望校は中1の頃からここだったらしい。好きな先輩が入学するとかいう理由で。
素晴らしいほどの活気と、生徒の勢いに疲れ果てた私はリサからそっと離れて休めそうな場所を探していた。
そんなとき
「どうかされましたか?」
先生が私に声を掛けてくれたんだ。
「……休める場所を探しているんです。」
元々短文をつなげたような話し方をする私にしては大分長い文章。
だけど、それが何も考えずに出た。
「…………それなら第二図書室とかどうでしょうか。」
そのときの私は相当疲れていた顔をしていたらしく、普通の生徒でさえも立ち入り禁止の図書室を先生は挙げた。
後々聞いた話によると、第二図書室は古い本が多いため先生の中でも限られた先生しか鍵を持っていないらしく、青井先生はその限られた先生の中の一人だったらしい。
そんなことも知らずに私は
「…案内して貰えないですか」
図々しいことを言った。
先生はにっこりとほほ笑んで歩き出した。
それに共鳴するように動き出す足。
「……ここの先生ですか?」
「そう見えますか?」
「………わかりません。」
「そうですか、……国語の…古典の担任をしていますよ。」
素直に答えた私に怒るでも悲しむでもなく、ふわりと、青井先生が笑った。
この時だ。
トクン―――
先生に恋をしてしまったのは。
絶対に報われない恋をしてしまったのは。
それから、元々無口な私史上一番喋ったんじゃないかというくらい会話をした。
明日、槍ふるんじゃない?なんて、リサが真顔で言ったんだっけ。
「…ありがとうございました。あの、先生。お名前は…?」
「僕ですか?古典の青井です。美術も青井先生ですから、間違えないように。お願いしますね?」
いたずらっぽく笑った青井先生。
気が付いたら私も
「はい。あ、でも、間違えちゃうかも。」
先生と同じ顔で笑った。
▼
それから2年ちょっと。私は、リサと一緒にここを受験して見事に受かった。
元々あまり偏差値が高い場所ではなかったのと、少しだけ悪いうわさがあったことからあまり競争率が高くなかったのも理由の一つだ。
毎年のように通った文化祭の成果も有り、青井先生はしっかりと私の前を覚えてくれていて入学式の日に
「あ、皐月さん。ご卒業おめでとうございます。」
私を見てにっこりと笑ったんだ。
▼
「…疲れた」
私がつぶやくと、リサも「ほんっと!あんのクソじじぃめ!」そう言って近くにあったゴミ箱をけった。
その音は人気の少なくなった廊下に良く響いた。
いつの間にか不良と化したリサ。
ギャルじゃなくて不良。
口も悪くなって、足癖も悪くなった。
気は、短くも長くもなっていないと思う。
リサの言ったクソじじぃとは、生活指導主任の蛙みたいな60近い理科の葉山。
私も蛙が苦手だけど、リサは超苦手らしい。
うざいんだと。当たり前か。
あの先生を好いてる生徒なんているはずがない。
息臭いし。ただでさえ加齢臭やばいのに。
そんなことを話して爆笑するリサと一緒に廊下を歩いているときだった。
ふいに第二図書室に行きたくなったのは。
私は自分が思っていたよりも大分優柔不断だったらしい。
思い立ったらすぐ行動。
「ごめん、やっぱ私第二図書室行ってくる。」
そう言って足を止めた私にリサは気が付いているけど足も止めずに歩いていく。
何も言わないから行こうと踵を返した私に振ってきたリサの声。
「……報われない恋だと思うよ。皐月がどんなにあがいても。第一あの人は家族がいる。奥さんも、子どもさんも。」
冷たくて、無情で。
それでも、リサなりの優しさがギッシリと詰め込まれた言葉。
「………わかってるから」
そっけなく答えて歩き出した。
リサはそのまま歩いて行ったんだろう。どんどん足音が遠くなって、いつの間にか聞こえなくなった。
▼
ギィッと重い音がして、自分の体重くらいあるんじゃないかと思うくらい大きい扉を体当たりをするように開けた。
いるかな…?
と、周りを見渡してみるけど、誰もいなかった。
だけど、カギが開いていたから。
私は奥の席に腰を掛けた。
先生は絶対に戻ってくる。
寝ていたらしい。
夕日で寝るとか私らしくない。
ムクッと起き上がって目を見張った。
「せ、んせい…?」
「あ、皐月さん。おはようございます。」
「……おはようございます。先生、どうしたんですか?」
私と向かい合わせの席に座って読書をしていた青井先生と目があった。
「ちょっと資料とって来て戻ってきたら皐月さんがここで寝ていたので。それにしても、幸せそうに眠るんですね。」
「…え。…っ!見たんですかっ?」
「ええ、ばっちり。気持ちよさそうでした。」
にっこりと笑う青井先生に顔が熱くなる。
最悪だ。白目むいていたかもしれないしよだれ垂らしてたかもしれないのに。
寝顔を見られたとか、あり得ない。
両手で顔を覆った私を見て先生は笑った。
そんな先生に顔を赤くしたのがばれないようにと必死に話を変えようとした私。
結局先生の読んでいた本の話にした。
かりぬる
意味は、離れる。
先生の授業だけは真面目に聞いている私は、なんとなく理解できた。
「それってどういう話なんですか?」
「…そうですね。簡潔に言うと、ある男の人にある女の人が恋をするんですけどね。その二人は実は腹違いのキョウダイで。かなわない恋をする話です…かね。」
……え、なにそれ。切なっ!
目を見開く私に先生は優しく笑う。
「この作者の、文がすごく好きなんですよ。僕。」
それからもう一つ、何でもないかのように
「あ、それから、僕。この学校をやめるになりました。」
そう言った。
え…?
一瞬で真っ白になる頭。
見開いていた眼がさらに見開かれる。
「両親が大分年を取ってきたので実家を継ぐことにしました。今更ですけどね。」
先生は微笑むけど、私はそれどころじゃない。
…え、は?
私がここに来た理由。先生がいたからなんですけど…、え?
それだけがグルグルと回る。
「い、つ…ですか…?」
声を必死に絞り出す。
「そうですね、3学期の始業日にはいないかもしれません。」
…は?始業日って、まって。今何月だか知ってます?
11月ですよ。
12月の中旬には冬休みに入ってしまうから…
うそでしょ。1か月ないじゃん。
「…そんな顔しないで下さい。皐月さんが古典の授業好きなのは知っていますから、素敵な先生に後任をお願いしようと思っています。だから、安心してください。」
安心?無理だよ。
先生がいなくなっちゃうんだよ?
それにね、私は古典が好きなわけじゃないんだ。
確かに先生のおかげで古典の素晴らしさってのは感じるけど。
私が好きなのは、先生が好きなんだ。
それにね。先生。
「…先生は、それでいいんですか?それで…っ。先生は、この学校が好きなんですよね!?」
珍しく声を荒らげる私。もしかしたら、先生との会話では初めてかもしれない。
そんな私に一瞬目を見開いた先生。しかし、すぐにいつもみたいに優しい笑顔で
「……この学校は好きです。大好きです。素敵な生徒さんにもたくさん出会えました。勿論、皐月さん。あなたも。…ただ、両親に親孝行をしなければなりません。」
「っ……先生…」
顔をゆがめる私。
先生はそんな私の頭を躊躇いがちに手を乗せて、ゆっくりと撫でた。
「そんな顔しないで下さい。大切な生徒を泣かせるなんて、僕は教師失格になってしまいます。」
だったら、やめないで下さい
なんて口が裂けても言えないけど、込みあがってきたそれを飲み込むと視界が歪んだ。
泣いちゃいけない。
先生を教師失格にしちゃいけない。
私はその場所から立ち上がる。自然と頭の上に会った先生の手が下に落ちた。
それでも何も言わない。
ごめんなさい。先生は優しいから。
「……青井先生。私、もうココに来ないようにします。」
私は告げる。歪んだ顔に鞭を打って作った笑顔は、きっと見るも無残なほど歪んでいるんだろうけど。私はそれでも笑わなくちゃいけない。
「………そうですか。残念です。…でも、皐月さんが決めたことですから僕は何も言えませんね。」
先生は悲しげに眼を細める。
歪んだ視界で物の輪郭がはっきりしないけど、先生の悲しげな顔だけはしっかりと見えた。
私は歪んだ世界で物に当らないように注意しながら、第二図書室の扉まで歩く。
そして、扉を引き、ギィッという重い音にかぶせるようにつぶやいた。
―――先生、好きでした。初恋は報われないって本当なんですね。
青井先生と、皐月藍(サツキアイ)っていう私の名前。
運命かもしれないって。本当に思ったんですよ?
先生は前、この話をしたときに笑っていたけど。
それでも、運命かもしれないって思ってたんですよ。
だけど、知ってしまった。
藍色と青色は“違う”ことを。
バタン―――
私の出て行ったその部屋で響いた一つの言葉。
「―――……すみませんでした。あなたの雰囲気に惹かれていたんです。僕は
妻子ある身で。」
私は
僕は
――――報われない恋をした