七夕企画 | ナノ


七夕
……そしてまた一つきみへの好きが増える……








 ざあざあと降りしきる雨をぼんやりと見つめながら、私は雨音にかき消されるほど小さく溜め息を落とした。地面を叩きつけるほどの雨は一向にやむ気配がない。
 生徒会の仕事を終えた私は、七夕という日を祝って早く帰ろうと思っていた。家に帰って、冷房の効いた部屋で布団にくるまり、カップアイスを一つ。そんな七夕とは無関係の至福の時を堪能しようと思っていたのに。アイスの代わりに、何度目かの溜め息を一つしておいた。
 傘はもちろんない。だからと言って、親に迎えに来いというのは些か気が引ける。どうしたものかと頭を抱えそうだった矢先、背後から優しい声音が聞こえた。私の名前を呼んでいる。一回、また一回。鼓動が跳ね上がった。

「……聞こえておらぬのか」
「あーあーあー、聞こえています」

 それはもうばっちりと。振り向くと、声の主――司馬師先輩は「そうか」と満足そうに笑み、私の方へ近寄ってきた。
「傘がないようだが?」先輩は私のがら空きの手を見て言う。

「七夕の奇跡を信じてたんですがね、外れちゃいました」
「ふ、七夕に荒れた天候は付き物だからな」
「はい」

 七夕の奇跡、もちろん愛し合う二人が互いに逢瀬し合うのもそうだが、天候のこともだ。毎年、七夕の日には雨が降る。五分の一の確率とは、神様までもが愛を拒むかのよう。私は雨が嫌いではないが、登下校のときに降っていると困る(室外での体育のときは是非と降ってほしい)。
 私の前に立つ先輩はもぞもぞと鞄を漁っている。後ろで降る雨はさらに苛烈さを増している。やけに憎らしい轟音に、私の跳ね上がったままの心音が聞こえない。

「……私の傘でよければ、だが」
「はい、」
「共に入らぬか?」
「えっ」

 思わず、口をあんぐりと空けてしまった。気まずそうにこちらを見る司馬師先輩の顔を見つめていると、「早く答えろ」と急かされてしまった。いや、もちろん彼と相合傘をできるのならば、嬉しいしそれはもう七夕の奇跡が形になったのだと思うけど、そんな……。こんな湿気の多くて暑い夏の日に、密着して帰るなんて。一応制汗剤は振りまいてはいるのだ。でも、そんな問題じゃない。
 長い沈黙と張り詰めた思考の結果、私はようやく口を開いた。

「よろしく、お願いします」
「……よかろう」

 いつの時代かも判らない掛け合いの末、私は先輩が開いた黒の傘に身を入れる。わずかに頬が上気してきて、せめて汗だけはかかないようにしようと心に誓った。
 先輩は歩き出すと、私も横に並んだ。彼は思った以上に歩くのが早くて、ついていくので精一杯だった。ばちゃばちゃと水を跳ねて、歩く。彼と肩が擦れ合う音に、傘から落ちる水の音、靴が地面と触れる音や、彼と私の心音が、胸と耳に刻まれる。一定のリズムから、先輩の息を感じる。ぼんやりと物思いに耽っていると、先輩はふと歩く速度を緩めた。

「すまない、早かったな」
「あ、ありがとうございます」

 司馬師先輩の大人の余裕を孕んだ笑顔に眩暈を覚える。雨と湿気で頬に張り付いた髪を、空いた手ですくってくれた。壊れ物を扱う手つきに春がやってきたような感覚があった(今は春も終えた夏なのだが)。手が離れると、また歩き出す。
 ゆっくりになった歩調に、私は自然と笑みがこぼれた。それに気づいたのか、先輩はこちらを不思議そうに見ると、「どうした」と聞いてきた。

「いえ、ただ、ゆっくり歩くと先輩と長くいられるなあって」
「……ふ、可愛いことを言う」
「彼女ですからね」
「そうだったか?」
「はい」

 先輩は傘を持つ手を変えると、左手で私の右手を包んだ。
「恋人だろう」なんて、素っ気なく言うわりには頬をほんのり赤く染めて言うから、嬉しくなって、彼に身を寄せた。鞄がぶつかり合って邪魔だったけれど、もしこの鞄が織姫と彦星だったならと思うとしあわせになれた。司馬師先輩は微笑む。微笑んで、足を止めて、道の端っこで私の瞳をきつくとらえた。
 このまま訪れる素晴らしい時間に覚悟を決めると、だんだんと近づく彼の顔に私は瞼を落とした。

 ▽

「……今頃、織姫と彦星は会えてますかね」
「当たり前だ」
「でも、雨はもっと強くなってますよ」
「あぁ、そうだ。だが、だからこそ会いたくなるものだと思わないか? 私が彦星ならば、雨なんぞと、お前を探しに足が千切れるまで、いや、千切れても探すだろう」
「……聞いてて、録音したくなりました」
「二度とは言わぬ」

 やがて、私の家へ到着すると、彼は扉の前までついてきてくれた。司馬師先輩の右肩はぐっしょりと濡れていた。それに申し訳なくなって、私は持っている真新しいタオルを先輩に渡した。

「これ、織姫からのお土産です」
「すまぬな、ありがとう。また洗って返そう」
「お土産なのに?」
「お前は織姫などではない。……また明日会うのだから」

「こちらからも贈り物だ」と、先輩は私の頬に口付けを一つ。今回は、溜め息よりもアイスよりも、もっと上質なもの。形にならないし、いつでもできるものだけど、きっと七夕の雨の日、18:49の時間にした口づけは一生訪れないものなのだ。彼の口付けのなごりに頬を緩ませながら、私は手を振ると、彼の背中が見えなくなるまで見送った。道の果てまで見送りたくて、結局濡れてしまったのは彼には秘密で。











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