戯言スピーカー | ナノ



 
ずきり、と右腕が痛む感じに顔をしかめた。執務がはかどらなくて仕方ない。仕事は溜まる一方だ。
少し前に私たち将兵らは幾人か曹操さまの元へ招集され、まだ小規模であるが凶器にもなっていた賊討伐へ向かわされたのだ。
人数も団結力も、すべてがこちらを上回っていたし、もちろん結果は勝利で討伐は治まったのだ。私の右腕の怪我を除いて。

流れ矢が掠めただけだったが、私は刀はおろか筆さえ掴むたびに利き手が痛んでしまっていた。治療はしたものの、私には圧倒的治癒力なんて人間離れしたものは備え持っていない。

筆をことんと置き、ぼんやりと天井を見上げた。この時にも腕が痛む。なんだか訳もなく情けなくなってきた。
とんとん、と扉を叩かれ「どうぞ」と返す。そこには思いも寄らない人物が立っていた。

「曹操さま……!?」

わざわざ、曹操さまぐらいの人なら無断で入ってきても構わないのに。どうしよう、扉を叩かせたってことで罪に問われるのではないか。

「郭嘉がなまえを探しておったぞ」

曹操さまにそう告げられる昼頃。
しかもそれだけだった。てっきりもっと重大なことかと思っていた。例えば、酒をよこせだとか、詩に興じようだとか。
前者は全く重大ではないな、むしろ女官に頼むことだ。

曹操さまのことはさておき、何か郭嘉さまに探されるようなことがあったかと不安になる。今までの経験、どちらかといえば私たちが探す方だ。去る者追わず来る者拒まずな郭嘉さま。えっと、これは意味が違う。

入れ違いになってはいけないと、私は思考を巡らした挙句彼の部屋へ向かうことにした。彼にいつぞや教えてもらった通り、女官には見つからないよう。見つかったら私は生き地獄を味わされるやもしれない、と言っていた。

生き地獄の責任は、女性の心を取っ替え引っ替えした郭嘉さまにあるのだけれど。

「郭嘉さまー……?」

扉を開け、部屋全体を見回す。今は誰の姿もなかった。女ものの香りがする一室。整った部屋の机には、放棄された仕事がたくさんあった。私を探す前にまず仕事をしてほしい。

座っていいのだろうか、と来客用の椅子を一瞥した。

「大丈夫、うん、大丈夫」

郭嘉さまは女性に優しいお方だ。
ふう、と椅子に腰を預ける。いつ来るだろうと鼓動が高鳴った。そして、その鼓動は大きく跳ね上がることになる。

どん、と荒々しく扉が開いた。扉の向こうには郭嘉さまがいて、何やら焦った様子だ。

「か、かくっ、郭嘉さま!」

急いで立ち上がる。彼と二人きりで久々に喋る、ということで湧き上がった喜びは一切消えてしまった。

ずいずいと近寄って来る郭嘉さまから一歩逃げる。あからさまに顔は真顔だ。どうしよう、この椅子は大切なもので愛する人専用とかだったら……!

「も、申し訳ありませんでしたっ」
「その威勢は買おう。でもなまえ殿、他に言うことはないのかな?」

右腕を掴まれる。あくまで優しく。しかし、その表情は怖い。

「椅子にそのような思い入れがあるとは思っておりませんでした……! 本当に申し訳ありません、あの、弁償ならしますからっ、なんでも言うこと聞きます!」
「椅子はどうでもいいんだ、なまえ殿。ただ私は、あなたの口から怪我をしたことを聞きたかった」
「……け、が?」

なんだか大きな擦れ違いが。気付けば郭嘉さまから離された右腕が自由になっていた。両手で彼の頬をむんずと包むと、彼はやっと穏やかな表情へと変わっていく。

「あぁ、取り乱してごめん、なまえ殿。私らしくなかった、ね」
「いえ、私こそ……。あの、怪我のことでどうして怒って?」

彼の頬から手を離し、私は郭嘉さまに連れられ先ほどまで腰掛けていた椅子へ。一瞬座ることに戸惑ったが、彼がどうしたのと聞いてくるものだから、私の勘違いだと気付いた。

「大事な御仁の怪我を、そこらにいる兵に聞かされたから何だか悔しくてね」

「我ながら馬鹿馬鹿しい」と郭嘉さまは続けて笑う。少し前に浮かべていた怒りの表情はすっかり消えていた。いつも微笑んで、誰彼構わず女性に声かける方が彼らしい。そう考えた自分に、私も毒されたものだと思う。

「郭嘉さまに伝えるほどのものではなかったので……。でも、ありがとうございます、郭嘉さま」
「これからは怪我はしないように、ね。言い方が悪いけど、誰かを犠牲にしてでもあなただけには生きてもらいたいんだ」
「そ、それは気が引けます」
「おや、残念。でも、私がどうしてここまで言うか分かるかな?」

そう言って、郭嘉さまは私の肩を抱き寄せた。部屋に漂うものとは違う匂いがふんわりと香る。また女の人に手を出したななんて、変な感情が私の胸を刺した。

「分かり、ません。そうだ、私まだ執務が残ってるので帰りますね」
「待って。あなたを帰す理由がないな。ねえなまえ殿、さっきなんでも言うこと聞くと言ったね」

ぞわ、と身体中が粟立つ。
逃げなければと私の頭が危険を察知した。まるで手中で転がされてる気分。彼から一歩身を引かせる。

「あぁ、部屋の前に私の部下を置いたから、ね」

しかし、近寄られる。
そこでなんてありふれたことだと思ったが、私は足を躓かせてしまった。傾く体、もう駄目だと諦める。
床にどさりと倒れ、彼は上から私を組み敷いた。

「ちなみに、部下の話は嘘だよ」

郭嘉さまはそう、妖しく微笑む。生きられる気がしない。こんな人にどうして女性は抱かれるのかと思う反面、私も悲鳴をあげるなど彼を殴るなどすればいいのにできないのだ。

「……まぁ、昼に女性を抱くのは無粋だ。さてなまえ殿、起き上がれる?」
「背中が痛いです……」
「はは、可愛らしい。ほら、ゆっくり立つんだよ」

結局抱かれなくて心底安心した。遊びだったら嫌だし、何より心の準備もできていない。

「また今度、なまえ殿」

とにかく彼は口を塞いだ方がいい。あと、手足を縛って外に出さないほうが周りは毒されないはずだ。