戯言スピーカー | ナノ



 
「なまえ、少し時間はあるか」

執務手伝いを終え、自室へ戻ろうとした私に将軍は問いかけた。何事もないように言うものだから、きっと良いことではない。雑用か、はたまた美味しくないお茶をいれるのか。後者だと、損をするのは夏侯惇殿だ。

「はい、どうしました?」

とりあえずと返事をし、退室するために掛けた扉から手を離す。文机に伏せ、書簡に目を配らせる夏侯惇殿の前に立った。
問題点はないと判断したのか、顔を上げて私の方を見る。なぜかその表情は曇っていた。

「……お前、は、孟徳の女遊びをどう思っている」
「随分大胆な質問ですね……」

予想外の質問に肩を竦ませる。
罰の悪そうに視線を逸らす夏侯惇殿だが、こんなことを聞くために私を止めたのだろうか。嬉しいけれども、なんとも言えない。何やら詰まったように問いかけられた気がする。

「えっと……、殿のご趣味に口出しはしませんよ。特にこちらに害はありませんし……。それがどうかされましたか?」
「……側室を、孟徳が俺に用意したらどうだ」
「えっ?」

殿が、夏侯惇殿に、側室。
その言葉は何秒か経って理解した。それと共に、深く胸が抉られるような痛みを感じてしまった。夏侯惇殿のことだから、私には関係ないのだ。分かっているのに、この気持ちはなんだろう。
眼前で深く悲しそうな顔をしている夏侯惇殿を見た。初めて見る表情だった。

「……殿が、将軍に側室を用意されたんですか?」
「あぁ。俺にもそろそろ子孫が必要だと思ったのだろうな。淵に子がおるから、尚更」
「……そうですか……」

私は将軍配属の副将だ。しかし、それ以外何もないのだ。私が勝手に彼を想っているだけで、想いを伝える勇気もない。
殿の言うことは一理あった。魏を支える一人の将なればこそ、その血を継ぐ子が必要なのだ。まして、夏侯惇殿だったらきっとたくさんの女性が手を挙げて喜び承るだろう。

「早く答えろ、なまえ」
「は、はい」

夏侯惇殿は痺れを切らし始めた。
急かされてしまい、とにかく脳内を整理する。殿の判断に従うしかないのだから、私は何も口出しできない。私情を挟んで良い訳がないのだ。

「……将軍に、任せます」
「なまえ、俺はお前に聞いている」
「ど、どうして私に聞くんですか! ……殿の、ご判断です。私には何も言えません」

唇を噛み締め、夏侯惇殿を見下げる。
とうとう目に涙が溜まっているかもしれない。しかし、関係はなかった。
眉根を寄せた夏侯惇殿からは怒りを感じる。

「そうか、ならいい」
「将軍……」
「俺は孟徳に従おう」
「側室を娶るのですか?」

こくり、と夏侯惇殿は頷いた。
それを見て、我慢ができなくなってしまい私は執務室から飛び出した。後ろから名前を呼ばれたが、止まることはできない。

誰にでも側室ぐらい持つ。正室を持つ人も、数は減るもののいるのだ。むしろ、夏侯惇殿が持たない方が不思議だった。


***


自室に飛び込めば、扉の前で座り込んだ。膝を抱え、顔を埋める。
嫌に決まっていた。何度も仕方ないことだと言い聞かせても、夏侯惇殿が他の人を抱くなんて怖い。それなのに逃げてしまった。想いを伝えることさえせずに。

「……どうしよう」

涙は思った以上に流れなかった。胸が痛い。それしかないのだ。
顔を上げ、ぼんやりと前を見つめる。質素な部屋だと思い、奇妙な笑いがこみ上げてきた。
そしてため息を落とし、立ち上がる。

会いに行く勇気が出なかった。いっそ寝ようかと思った矢先、勢いよく扉が開かれた。背中から押される感覚。体が前に倒れていく。

「なまえ!!」

夏侯惇殿の声が聞こえたが、私は驚いて何も感じなかった。床に叩きつけられることを最後に、改めて自分は格好つかないな、と自笑した。


***


「んっ……」

意識がはっきりし出すと、ずき、と左肩が痛んだ。目をゆっくり開き、見慣れた天井をだんだんと視界にいれていく。ぱちぱちと瞬きをしながら、眠る前のことを必死に考えた。

「なまえ……!?」
「将軍……」

とうとう思い出し、頬が熱くなる。
そうだ、嫉妬に駆られて部屋に戻ったのはいいものの、将軍が勢いよく開けた扉に押され転けたのだ。我ながらよくできた偶然だと思う。
寝台の傍らに置かれた椅子に腰掛ける夏侯惇殿は、額にかかる私の髪を掻き分けていた。しかし、目覚めと共に手を離し、心配そうに私をただ見ている。

「本当にすまない。お前を傷付けた挙句、床に叩きつけたな……」
「そんな……! 気にしないで下さい、私が扉の前で突っ立ってるのが悪いんです」
「なまえは悪くないだろう……!」

拳を握り締め、片方の手で私の手のひらを包み込んだ。冷たい指先だった。しかし、離れたくないと胸に染みながら感じ取った。涙がこぼれそうになる。

「……ごめんなさい。私が、将軍を困らせてしまったから」
「謝るな。俺もさっき、お前に変なことを問うただろう」
「……ふふ、それならお互いおあいこってことでどうですか?」
「……そうだな」

ふんわりと夏侯惇殿は笑みを浮かべ、私の手のひらをもっときつく握った。その手を私は両手で包み込み、彼の指先があったまるようにした。
鼓動が早鐘をして、終わりを知らないようだ。このままだと、さっきまでの話を忘れてしまう気がした。

だからこそ、言わなければいけない。

「将軍、先ほどの話です」
「あぁ……」
「私は本当は……嫌、です。将軍が知らない女人を抱く、なんて」
「それは、俺だけか? 孟徳に対してもそう思うのか?」
「ち、違います! ……将軍だからです」

つい恥ずかしくなり、目を逸らす。
包まれた方とは逆の手で私の髪を撫でる夏侯惇殿の顔は、きっと笑っているに違いない。

「愚問だったな。お前が俺をどう思っているかはわかっていた。……側室はとらん」
「えっ、いいのですか……?」

その答えには驚いた。そして、夏侯惇殿が私の想いを知っていることにも。
今更、彼に受け入れてもらったことに気づく。頬が熱くて堪らない。

「当たり前だ。元より、孟徳の遊び心のようなもの。お前には頑張ってもらわねばいかんな」
「頑張る……?」

そう聞いたが、答えは返ってこない。
逆に掛け布団を剥がれ、頭を挟むように彼の両手が、そして体が私の上に覆い被さった。
ゆっくり唇が私のそれに触れる。戸惑ってきつく目を閉じた。彼の胸に手を抑える。

「将軍っ……?」

頭がくらくらした。初めての感覚。酸素を求める為に胸が上下運動をしている。
眼前にいる夏侯惇殿は逆に、何事もないように慈しむような眼差しで私をとらえた。
また、額にかかる髪を掻き分けてくれる。

「将軍、じゃないだろう」

低く掠れた声は、とても安心感のある囁きだった。痺れるように彼に恋しているようだ。既に意識を手放しそうになっている。

「夏侯惇殿……?」
「ほう? そちらで呼ばれるとは思っておらんかった」
「元譲、殿」

意を決して言うと、勝ち誇ったような顔で夏侯惇殿はまた口付けをした。暑い。暑くてたまらない。こんなに緊張していて、夏侯惇殿と一緒にいれるのだろうか。心配になってきてしまった。

やがて離れると、息を整えるために何度と息を大きく吸った。

「……続きはまた今度、だな。孟徳に側室のことを報告せねばならん」
「か、元譲殿っ」

寝台から起き上がり、傍らの椅子に座る。

「側室がおらぬ代わりに、頑張る理由は分かっただろう」
「それって」
「なまえ、お前もついてこい」
「答えはまだ聞いてないですよ、将軍!」

私も寝台からおり、乱れた衣服を整えて退室しようとする夏侯惇殿の後ろについていった。将軍、という言葉に反応した夏侯惇殿は、呆れ交じりの顔を浮かべているようだ。

「あの、将軍」
「元譲と呼ばんか」
「……元譲殿」
「ふん、それで良いわ」

扉を閉めて、殿の執務室へ続く廊下を歩く。歩幅の大きい夏侯惇殿について行くのは大変だったが、ふと彼の手が目に入り、それを握ったら案外楽だった。

「……わざとか」
「え?」
「分かっておらんな」

しかし、それを殿に見られて真っ赤になるほど恥をかいたのは、私であった。そして弁解が楽になり清々しく喋っていたのは夏侯惇殿だった。