長い遠征も、良い形で終わった。 曹操軍は許昌へ戻ればすぐに勝利の杯をかざすために宴会を開いた。 女官は走り回り、芸妓は華麗な舞を見せる。給仕の者は次々と豪勢な食事を運んでいた。 疲れも残っているが、宴会となれば別である。たくさんの兵士は度数の低い酒に酔い痴れているようだった。 私も、その一人である。度数が低いために酔う心配はなかった。しかし、私の場合は酒に弱いのか、どうも先ほどから頭がくらくらしてならない。 頬の熱に、かっとなる喉。 張遼殿が一度心配をしてくれたが、大丈夫と言えば冷たい水をくれた。 「今は兵士も浮かれておりますゆえ、武人と言えど女人の貴女に何が起こるかは分かりませぬ。少し休まれよ」 そう言って、彼は宴席から立ち去る。 一気飲みをするようだった。宴席の真ん中ーー殿は普段の厳しい表情から打って変わり、笑みを浮かべている。 なにやら句を詠んでいるようだ。 私は宴席から立つと、堂々と自室へ向かう。生憎満腹ではなかったが、空腹でもない。丁度、腹八分というところだ。 自室の扉を開けて、静かに部屋に潜り込む。ひんやりとした冷たい空気が迎えてくれた。 肺一杯に吸い込み、吐き出す。熱は未だに冷めない。 少し、横になろう。 そう思い、皺々な敷き布の敷かれる寝台に横たわる。仰向けになり、天井を見上げた。 (そういえば、元譲殿はどうしてるのだろう……) 夜、眠る前には彼がいつも横にいた。 日常的に側にいるのだが、私情で会うのとでは違うものだ。 寝台の前にある椅子を見る。 なにもない。妙に心細く感じて、私はまた天井を見た。 (今ごろ、飲んで、食べて、笑ってるのかな……) 当たり前のことだけど、当たり前にするのは難しい。 目を閉じ、ゆっくりと体の力を抜いていく。その瞬間、自室の扉が慌ただしく開かれた。 「なまえ! いるか!?」 「元譲殿?」 突然の来訪にあまりに驚いたせいで、寝台から勢いよく起き上がってしまった。きっと腑抜けた顔をしているに違いない。 一方の慌てた顔をしていた元譲殿は、ほっと胸を撫で下ろしていた。 ずかずかと寝台の横に来ると、寂しいと思っていた椅子の上に座る。嬉しさで、胸が締め付けられたのが分かった。 元譲殿は、そのまま私の体を優しく抱き寄せる。冷えた空気に晒されていたせいか、程よいぬくもりに眠気が襲ってきた。 抱き寄せる手が私の頭を撫でる。とても優しく、壊れ物を扱うような手つきだった。 「張遼からお前のことを聞いた。よほど酔っていると。……女官や芸妓の者がいようと、お前は兵士からは顔見知りだ。加え、なまえは宴席におらんではないか。何かあったら……と心配した」 「……すいません」 「なぜ謝る。……無事で、安心した」 そう言って、髪を指で梳く。 自分の体を支えていた手を、彼の背中に回した。元譲殿が私を引き離すと、きっと私は前に倒れて寝台から落ちるかもしれない。 しかし、今はそんなことどうでもよかった。 格子窓から射し込む光を見つめながら、彼の優しさに胸があたたかくなるのを感じた。 「元譲殿ったら、私が一人で幾月も遠征したら、将軍という立場を忘れて追ってきそうです」 「ふん……そのようなことせんわ」 「そうですか……。少し、さみしいです」 「……そもそも、行かせん。お前は俺の横にいろ、片時も離さんぞ」 肩上にある元譲殿の吐息が、首にあたってくすぐったい。もぞもぞとすると、申し訳なさそうに私を抱き寄せたまま、寝台に腰を移動させた。そして、静かに離れた。 私も少し前屈みになっていた体制を直し、いざ向かい合わせになる。 「ど、どうしましょう」 「そうだな。お前が宴席に戻るなら付き添うが、このまま床に就くなら俺はまだやるべきことがある……1人で大丈夫か?」 「もう、子供じゃありませんよ。……大丈夫じゃないって言ったら元譲殿は困りますからね」 「……全く、なまえには敵わん」 柔らかな笑みを浮かべる元譲殿は、私の頬を撫でた。そのまま顔がゆっくり近づくと、頬と喉、唇へ流れる。触れ合うような口付けなのに、これでもう精一杯だった。 「おやすみ、なまえ」 「おやすみなさい。元譲殿」 ぎ、と寝台は小さく悲鳴をあげる。 そっと離れ行く背中を見つめながら、元譲殿が出て扉が閉まると私は体を倒した。 誘われるように眠くなっていく。 彼が心配してくれたこと。それが何よりも嬉しくて、つい頬もとが緩んでしまう。 けれども、気が付けばやはり眠りについてしまっていて。 小鳥の囀りを聞きながら、真っ先に飛び込んだのは彼の穏やかな表情だった。 (焦がれる心臓) |