戯言スピーカー | ナノ



 
「それはなんだ」

筆を止めて、顔を上げるとちょうど法正殿と目が合った。視線の先を辿ってみると、何やら桃饅を見ているようだ。包みを開いて、残り二つの桃饅が卓上にある。仄かに桃色に色付いた薄皮の上に、煮桃の果肉が飾られている。

「桃饅頭ですけど」

一つ手に取り、柔らかさを確かめる。
それでも気に食わないのか、法正殿は片眉をひそめておかしそうに喉を鳴らした。

「桃饅か……、何故お前がそれを持っている」

訝しげに尋ねられたため、私は首を傾げた。

「法正殿のことが大好きな女官、いるでしょう。あの人からもらいました」
「……支障はないようだな」

訝しげにこちらを見てくるため、もしかしてと嫌な予感がした。

「食えているならいい」
「えぇ、教えてくださいよ!」
「聞きたいか?」

そう言われると聞きたくなくなる。残り二つの桃饅からは甘い匂いがしてくるし、さっき私だけで二つ平らげたのだ。体調は優れている。むしろ、何かよくわからない活力が身についた気がする。今さら食べ進めても引いても変わらないと言い聞かせ、私は頷いた。

「俺のことを恋い慕うその女官が作った桃饅だ、そいつは」



法正殿とは昔馴染みで、益州の外れの群に視察に来ていた法正殿と再会を果たしたのだった。彼から幸か不幸か「恩を売る」を名称に配属の将にされてしまうが(周りに将と言っているだけで、本当は女官というべきか、雑仕だ)、再会する以前は鉄の胃袋を持つ女の端くれでしかなかった。
一応、炊事洗濯と力仕事を得意としている。ここに来てからは文の読み書きを学び、私たちの状況と関係を知っている一部の方たちに武術を教わっているから、もしかしたら私は何でもできるのではないかと畏怖している。

「くく、つらいか?」
「つらいどころか薬でも盛られてないか心配です」

聞いたところ、元はこの桃饅は法正殿を異常に恋い慕う女官が作ったようだった。それはいい。法正殿の執務室に無断で立ち入っただけでなく、たまたま出会った彼女が私に「それ、頂いてください」と言ったのを聞いて、安心して食べていた。
しかし法正殿が言うところ、以前にも間接的に貰ったことがあり私のだと思った彼は食べてしまったのだ。尋常じゃない腹痛と三日三晩襲われる女官との夢。そのこともあって、法正殿は彼女自身と桃饅に気を付けているそうだ。なるほど、法正殿の弱みとはこれか。

「でも、報復しないんですね、珍しい」
「報復できるものならしている」
「え? もしかして見たことないんですか?」

私なんて、出会ったどころか桃饅どうぞって言われたんですけど!
馬鹿にするように言うと、書簡で頭をはたかれ口に桃饅を詰め込まれた。「んぐ」と口内の圧迫感に言葉が詰まり、咀嚼するまで時間がかかってしまった。毒薬が入っているかもしれないのに、もしかしたら死ぬかもしれないのに!
だからと言って法正殿を睨んではいけない。今している雑務も睨んだり昔みたいに馴れ馴れしく喋ったから増やされたのだ。もぐもぐと最後まで食べきり、はしたなく指についた果肉を舐めとる。

「どんな女だった。名はわかるか」
「とても可愛い顔でしたよ。法正殿といたら危ない匂いがする感じで……、あっ、ごめんなさい」

鋭い眼光に睨まれたため口を噤む。
残り一つ、余った桃饅からとてつもない甘い匂いが漂ってくる。見た目はとても可愛いもので、大きさもお手軽だ。普通なら貰えば喜ぶだろう。可愛い人から手作りの甘いお菓子をいただける。私には無縁だと最後の一つに手を延ばす。

「待て」

桃饅を握った手を掴まれ、そのまま法正殿は自分の口元へ寄せる。ぱくり。一口だけ食べてみるのだ。死ぬかもしれないのに。私は胃袋がおかしいから生きているだけなのかもしれないのに。
法正殿は薄皮に包まれた桃の果肉に対して「甘いな」と言って、眉をひそめさせる。
もう一口、歯を立ててそのまま口に放ったのを見つめた。

「俺の好みではない。報復の対象にもならんな」

まずかったら報復するつもりだったのか。逆に好みだと報恩ということで。呆気にとられる私を見て法正殿は口端をあげる。「指」と言われてはっとなる。もう彼に手を離されてるのに、浮かしたままだった。
まさか、手を掴まれたことに一瞬胸が高鳴ったなんて。指先についた粉をはらい、筆を握る。作業に戻ろうとしたところで、未だ法正殿が机を挟んで立っていることに疑問を抱いた。

「あの、いい加減座りませんか?」
「……お前は俺に返すべき恩があることを知っているな?」
「もちろん知ってますけど……」

何を言うのかと眉をひそめる。

「一つ、恩を返してみないか?」「それは一体」
「なに、この悪党と噂になるだけだ」

ごくりと息を呑み、法正殿を見た。

「明け方、お前は俺の室から出て行く。……簡単だろう?」