White day | ナノ
なまえはえくぼを見せて笑う女性だった。


或る夜更けの頃、曹操が催した宴席に参席した日のことだ。賈クは中庭を歩いていた。暗雲が立ち込める外の景色を肴にするわけでなく、意味もなくぐいっと杯を煽ってばかりだった。酒を喉に流し込むと胃が冷たくなる。対して体は火照り、その熱を冷まそうとまた飲むのだ。
気付けば酔っていた。おぼつかない足取りであずまやへ誘われるように向かうと、そこにはなまえがいた。「あ……」と、互いに目が合った時にどちらが放ったかは分からない。ただ耳に届くのは遠くから誰かの笑い声だった。羨望するわけでなく、ただ、よくあのような甲高い声に耐えられるなと思う。

「これはこれはなまえ殿、隣はよろしいかい」

行き当たりばったりに言ってみる。なまえは瞬間にまばたきをして、ようやく「あぁ」と納得をすると少し体をずらした。いくらでも席は空いているというに。賈クは様子をじっと見て、「失敬」と笑いながら隣に腰掛けた。
なまえは物静かだった。賈クがやってきたところで特に口も開くことなく、もくもくと酒を嗜んでいる。緊張が走るような雰囲気も出しておらず、彼女は安心しきっているようだ。不注意な女だ、と賈クは酒を煽る。
ここと宴席とでは世界が違う。先ほどまで周りとの話はわりと盛り上がっていた。宴を開いたことにも意味があり、曹操の知人の婚姻が決まったから開いたという。あの人がどのような女性と出会ったか、きっかけは何かなどと喋っているうちに酒はすすみ、だんだんと内容は過激なものへ向かっていった。賈クは流すように聞きつつ、わざわざ頷くことにも疲れたため抜け出してきた。

(彼女と出会うのならば、あそこにいた方が良かったか)

素っ気ないほどに冷めた空気は嫌いではない。ただなまえと会話をすることも面倒くさく、何より頭ががんがんと痛む。ましてなまえといることにより妙な膜を感じるため、頭が自然と使われる。なおさら疲れてしまうし痛むのだ。

「あの人の婚姻相手の女性、とても綺麗な方でしたね」

不意に声をかけられ、賈クはを握る手を強めた。
真白い月の光に照らされ、なまえの控えめな笑みは不気味に映る。

「よく思い出せないんだが」
「鮮やかな赤と黄の服を着てた人ですよ。動きが丁寧だねとか、言ったじゃありませんか」
「んー、……あぁ、あの人ね」

そう遠い記憶のように思い出すも、なまえもいい意味でたいして彼女と変わらない気がする。おしとやか、とか、綺麗、とかそこまで気になるものだろうか。賈クはなまえをよく見て、武人ということも加えると彼女の方が上だと思う。

「あれだけ綺麗だったのに、賈ク殿の記憶に残らないなんて」
「あんたの方がよほど魅力的だからね」

冗談抜きで言ったつもりだ。しかし、

「郭嘉殿の戯言がうつりましたか?」

と笑ったなまえ。口元を隠す手が白くしなやかだ。筋肉もあまりついていないように見える。おとなしい。これがなまえを初めて見た人が浮かべる印象だろう。じつは戦場では鎧に身を包み、怒号を敵へ浴びせたりするのだ。それはもう激しく。賈クは柱に腰をもたれて、なまえに「手厳しい」と言って手をひらひらと振った。

「まあ、本気だったとしても困りますから」
「そう困ってくれるな」
「困りますよ。だって、私なんて字もうまく読めないような不学者ですから」
「女で読める方が珍しいし、人に白く見られるもんだ。いちいち人と比べなさんな」

これも慰めのつもりで言ったつもりだ。

「それに、俺と会話をするのなら学がない方がちょうどいい」

心情も深読みされず、ただ騙されていてくれる。
賈クはよくなまえに嘘の情報を与えては、それは冗談だと教えることがあった。どうして未だ信じていてくれるのかは不思議だが、それもまたなまえの長所だろう。時には短所にもなるが、この時代、彼女のように純粋な人がいる方がいっそ清々しくなる時もある。

「喋ることに疲れないからね」
「それ、馬鹿は考えないから楽だと言ってるんですか」
「あははあ、違いない。だが、互いにと補足しておこうかね。俺はどうも人を小馬鹿にして喋る癖がある。相手の頭がいいと臆病な心をすぐ悟ってくるもんだ」

郭嘉と喋っているときは特にそうだ。あいつはどうも食ってかかると痛い目を見る、と己の体験談に顔をしかめた。なぜ賈クがその一言を選んだのか、よく考えて郭嘉は喋ってくる。そして一言一句違わずに、本心を喋らそうと手を打ってくるのだ。煩わしい行為になんど歯切れの悪い思いをしたことか。
裏に打算と臆病が隠れていることも察しているだろう。だからこそ信頼をおかれていることも確かだが。気に入らないことといえば、ただのどうでもいい会話のときはすぐに「面白いね」と話を切り替えてくることだ。賈クにとって渾身の笑える話を振ったときはほとんどそうだ。

「賈ク殿と喋ると互いに疲れる……、そんなことあるんですね」
「あんたくらいだよ、俺の笑いに素直に笑うのは」

酒を飲もうとしたら、賈クの觚の中身は空になっていた。空のものをみると、どうしてここまで満たされない気持ちが溢れてくるのか。まだ飲みたかったと思い、だいぶ毒されたと肩を竦ませる。

「どうしました?」

口を休ませようと黙り込み、ぼんやりと地面を見ていたなまえがこちらを見ていた。

「……いや、何でもない」
「酔っちゃいましたか」
「ははあ、あんたもかい」
「ええ、そんなところです」

冗談気味になまえはくすくすと笑った。えくぼがある、と気付いた。今まで共に過ごしてきたというのに、今更酔ってから気付くとは。酒もまた人の意識を混濁させるものだからと油断をしていた。そう、混濁。

賈クはそのえくぼがまた見たいと思った。

「酒のせいか、今日は喋った気がするね」

なまえは「嘘だ」と笑う。どうしてかは不明だが賈クは身構えてしまった。なんだ、今の。頬もとが緩んでしまいそうになる。賈クは口を隠し、彼女の言葉を待った。焦燥感が胸を焦がす。

「むしろいつもより少ないですって」
「……あー、そうだな」

うやむやに答える。
そんなことよりも、妙になまえの声が鮮明に耳に届いたことが驚きだった。酒とは恐ろしいものだ。理性さえもどこかへ持って行ってしまう。もとよりなまえを女としては見ていたが、やはり距離というものは互いに保っていた。頼れる仲間同士でいることが心地よかった。一瞬の酒による行為でしたくないことといえば、のちに面倒ごとを招くこともそうだが、捌け口で抱くことも避けたいとは思ったことがある。

「なまえ」

試しに呼んでみた。自分への確認だった。まっすぐなまえを見ようと顔をあげる。


淑女の青臭い笑みだった。


賈クは微笑むなまえの口元を見つめていた。自分のものと違って女性らしい色付きと厚みを持ったそれは喋るたびに奇妙に形を変える。艶やかで、彼女らしく目立つことをおさえた紅が反射する。
途中、なまえが「賈ク殿、顔が赤いですよ。そろそろ控えてはいかがですか」と眉をひそめた。賈クは心の中で言い返した。べつに見惚れていたわけではないし、既に酒はなくなっている。
唇だけでなく眉も器用に動き、賈クは「あははあ」と腹の底から軽蔑するように笑う。可愛いと思った。この歳ともなれば娘の成長を見守る父のような、いや、知人の赤子を見たときのような気持ちに近い。しかし、――違う、と賈クは目を細めた。

(何を思ってるんだか)

とっさに心のどこかで否定をしたことがさらにおかしく不愉快だった。その間にも、なまえは賈クの気も知らず首を傾げる。

「俺はすこしおかしくなったようだ」

賈文和という男はなまえに恋をしている。酒に酔った勢いでだ。情けないと思いつつ湧き上がる気持ちを吐き出すこともできず、妙に気疲れをしたようだった。なまえは「もう、手遅れです」と言う。

「そんなにべろべろで、明日どうなっても知りませんからね」
「なに、あんたが介抱してくれるんだろう」
「またそんな冗談ばかり」
「あははあ、違うと言ったら?」

すると、なまえの觚が揺れた。中の酒が波打つ音はしなかった。どう返そうかと悩んで表情を変えるなまえを見て、賈クは笑った。遠くから騒ぐ音が聞こえる。そうか、そんなに時間は経っていないのだ。ここにいるとなまえと初めて出会ってから今まで過ごした思い出がすべてよみがえってくる。つい想いを馳せているうちに、時間が飛んでしまった感覚になっていた。

「笑ってくれ、なまえ」

どうせ、酒には酔ってないのだからなまえにはこの言葉の意味がわかるだろう。これほどまでに一直線に言ったのだ。彼女はすこし間をあけて、能天気な笑みを浮かべる。恥ずかしさの混じったその笑顔はやはり魅力的だと賈クは満足した。一体この満足感は何なのだろう。

「綺麗だな、あんた」

賈クの言葉になまえは目尻を下げて、微笑んだ。心が彼女が表情を作るたびに満たされ、咄嗟に言ってしまったものだ。いざ笑顔を見ると自分が言った言葉の重さに、賈クは觚を手放しそうになった。彼女のえくぼが、灰色の影を落とす。遠くから喧騒が聞こえる。


魔法の言葉を囁いて

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