White day | ナノ

あの人はああいえば「うむ」という人だ。邸で彼の帰宅を待ちながら思い出し笑いをうかべた。
共に寄り添い、もう幾年も重ねている。だから、不思議と文則のことはわかるようになった。今日も帰ってきて、まずは迎える。文則は冬の冷たい風に頬と手を真っ赤にして、眉をひそめながら、私が彼の手を包みこむのを無言で待つのだ。そして、「今日は湯浴みを先にしますか?」と尋ねれば、「うむ」と返ってくる。それなのに晩御飯を待つ。
私は文則のそういう行動におかしいと笑い、あえて口にはださない。だしたところで、文則が嫌がるのがわかる。ただ奇妙には思った。「あの文則」がぼんやりとしている。最近は会ってないけれど、李典殿が訊いたら十回くらいは「もう一回」を所望するだろう。
「あの于文則という男が、ぼんやりしている」
――それは何か天災が巻き起こるのではないかと不安になるほど、滅多にないことだ。

さておき、ようやく邸の入り戸から文則が帰ってきたと報せを訊いた。
急いで立ち上がって、迎えに行く。今日はそこまで風も吹いているわけでもなく、春が近づいているのだと嬉しくなった。

「おかえりなさい! 今日もお疲れ様です」

そう言って両手を包むと、

「ただいま」と返して、文則は眉のしわをすこし和らげた。
家ならではの安心感。文則が帰ってくると、私だけでなくこの世界は活発に動き出す。

「今日は湯浴みを先にしますか?」

文則はやはり「うむ」と答え、私より一歩先に居間へ向かう。何をするのかと思えば、衣服を着替えて顔や手を水で洗った。湯浴みに向かう様子はない。もう少しだけ見ていると、文則は椅子に腰かけて自分の肩を揉んでしまっていた。

「肩、お揉みします」
「あぁ、頼む」

後ろに回り彼の肩を揉む。そのとき、ふわりと優しい匂いがした。これは私が以前あげた香物の匂いだ。つけているんだ、と感動に笑うと、その笑顔の理由を知らない文則は「どうした」と尋ねた。

「いい匂いがします」
「……そうか」

このまま鼻を彼の首元に近づけると、文則はたいして嫌そうな素振りも見せず黙った。私はさみしさを隠して首元から離れる。何度か揉んでいるうちに、今日の晩御飯は任せようと思った。たまには、寄り添うだけの日々というのもいいかもしれない。それこそが贅沢なのだから。


文則は食事をしてから湯浴みへ向かった。湯浴みへ行かれると、すっかりと居間は活気をなくし埃っぽいものになる。しみったれた室内に残された私の思い出と乾いた体。

――「なまえを正妻に、と」
その言葉を言ったのは曹操さまで、驚いたのは彼でもなく私だった。文則と契りを交わしたとき何度もその単語を訊いていたのに、やけに二人以外の人物が言うと生々しい。
私はすこし恥ずかしがって、隣にいる文則の表情を伺った。やっと、あぁ、結婚するんだと確信した。

文則とは言葉にできない関係が築かれている。熱情的、怠惰的、感傷的でもなく、ただそばにいることが必然であるような関係。毎日同じ動作を繰り返し、何か違いを欲するわけでなく、ある一定の幸福を与えられて日々生きている。私にとっては実のある生活だ。ただ、一般では熟年夫婦と片付けられ、愛のないと言われる。
この生活が私と文則にはちょうどいいとは誰も理解しようとはしない。珍しいからだ。極めて。破り捨てた紙の破片だって、ごく稀に元通りになることを、誰も信用しようとはしない。


思った以上に過去に耽ってしまい、気づけば文則が湯浴みを済ましたらしく、居間へやってきていた。

「あの、文則」

反射的に彼は「どうした」と返し、崩れた衿元を直す。私はすこし間を置き、やっぱり「もう、寝ましょうか」と話を変えた。本当は何かあったのかと訊きたかった。でも、いざ文則の前に立つと、初対面のような緊張感に包まれる。どうしてか、きっと、過去の文則といることが当たり前になりすぎていて、悩み詰めている新しい文則といることが新鮮で嫌なのだ。

文則は「あぁ」と言って、私の身を抱き寄せた。肩を抱き、寝台へ運ぶ。文則から新しい匂いがする。私は、――何も変わっていない。

「なまえ」

布団にくるまり、文則の胸に擦り寄りながら頷いた。私の髪に指を通し、わずかに早鐘を刻む鼓動に耳を澄ます。

「……よく眠れ」

一瞬何かを考えたように一拍置いて、文則は私を抱き締めた。おやすみなさい。彼の衣服を握ると、おやすみ、と返ってきた。


海原の淡水人魚



後日、隣にあるはずの温もりを求めて手をさまよわせた。文則は私が起きる前には出ているから、それは叶うこともない。そう思っていた。
手が掴まれていた。そのまま、目を開く前に体が温もりに包まれていた。

「……文則、」

見慣れた深衣の色に安心する。
やがて顔をあげると、穏やかな表情をした文則が目に入った。どうして、まだいるのだろう。そう言うとまるで早く行ってほしいように訊こえるけれど、疑問だった。もしここから宮に向かうのなら、いくら曹魏の重臣として近場に邸があるといっても、多少は時間がかかる。不思議そうに見上げて訊いた。

「お仕事は?」

すると、文則はいつもより低めの声で、

「今日は休暇を殿にいただいた」

と答えた。

「そうでしたか。嬉しいです」
「あぁ、私もだ」

文則は私の髪を梳きながら、もう少し身を寄せ合った。苦しいくらいがちょうどいい。この苦しさには文則の不器用さが隠れている。どれだけ力をこめないよう頑張っても苦しくさせるのだ。

「なまえ」

頭上から届く声に「はい」と答えた。

「おはよう」

続けて「朝の挨拶をするのは久方ぶりだ」と申し訳なさそうに言う。私はそのことにそういえばそうだな、と思いつつ「おはようございます」とほほ笑んだ。文則は私よりも私に気遣ってくれる。本心から大事にされているなと感じた。どうして、こういう関係をみなは望まないのだろうか。そばにいることが最大の贈り物よ、と結婚をする前の女性は口を揃えてそう言う。私もそうだった。今もそうだ。けれど、私の友達はそうではなかった。ずっとそばにいると疲れるし飽きたわ。と、旦那の悪口を添えて苦笑する。

私だけがそう思えるのは、私自身の幸福の基準が低いのか。それとも文則との関係は相変わらず恋人同士の延長戦であるからか。
ちらりと文則を見る。彼はやはりどこか遠くを見ていた。視線の先には誰が映っているのだろうか。そこで悲しみを感じた辺り、私は一向に文則という男を愛しているのだと痛感した。



朝餉の準備をしていると、文則は私の隣に並んでお茶の準備を始めた。はらはらした眼差しで見ていると、ちょうど目が合う。

「邪魔だったか」

わずかに表情を曇らせて言った。

「いえ、むしろ助かりました」

ついでに「これをいれると美味しくなりますよ」と言って、蓋椀に干した梅をすこしいれる。文則はこれで何が変わるんだと言いたそうに、眉をひそめた。蓋椀を数分置いて、色と香りが立ち込めると茶器にうつす。
私の方も土台となる生地が蒸しあがり、そこに同時に煮ていた豚肉と野菜を乗せていく。芋をすりおろしたものも入れたため、いい感じにとろみがついている。
薄めの味にととのえたから大丈夫だとは思うけれど……。味見をして確かめる。

「よし」と納得し、皿に盛りつけていく。そういえばさっきから静かだな。振り向き、文則の様子を確かめようとする。しかし、私に覆いかぶさる大きな影。「え」と漏らし、顔をあげると、文則が険しい顔をして私を見ていた。思わず手からこぼれ落ちる箸。からからと音をたてて転がる。

「ぶ、文則?」

名前を呼ぶと、文則も私の名前を呼ぶ。
強張っているのは二人ともだ。どう声をかけよう。文則は読めない人だ。そのくせ複雑なことばかり考えて……。そうして心ここにあらずの状態でいると、文則が私の頬に接吻をしたというのを三秒経って理解した。接吻自体あまりしていないから、ぱくぱくと口が開閉を繰り返す。どうしよう、今、延長戦が私の敗北で終わった気がした。

「いつもなまえの働きには感謝をしている。……形として残るものがいいと思ったのだが、私は愛妻の嗜好さえも理解しておらぬ。不甲斐ないばかりだ」
「……い、いえ! そんな、私こそ毎日変わらないことばかり続けて」

羞恥に頬が熱くなり、両手で覆う。その手は文則にとらえられ、真っ直ぐに瞳のうちまで見つめられる。文則。声が出ない。結婚をしてから、初めて照れた気がした。唇での接吻も、情事でも、当たり前だという気持ちがあった。それは文則も私も出会ったときから笑いあって幸せに生きる関係ではなく、隣にならんで互いの行動を見張るような関係だったからだ。幸福であることには変わりない。けれど、動きはしなかった。今ようやく私が邸に待機する立場になったというのに、見張りあう関係を保っていた。

文則、という言葉は彼の接吻によって奪われた。酸素を貪るように長いものだった。
背を向けている台にもたれ、文則を受け入れた。どうしてここまでこの人は愛おしいのだろう。顔がそっと離れて、最後にもう一度頬に接吻したら文則は恥ずかしそうに微笑んだ。口端を無理にあげているのがわかる。不器用な人。

たまらなくおかしく思い、私は文則の匂いを嗅ごうと胸に飛びついた。一度私の背中に腕を回し、――離れ、ようやくきつく抱き返してくれた。やっぱり、不器用。そして繊細。

「悩みは解消されましたか?」

私の大好きな私の贈り物の匂い。

「あぁ。……なまえ、提案がある。食事後、街へ赴かぬか」

慣れていなさそうなお誘いの言葉に笑って、

「はい」

と答えると、文則は「うむ」と私の頭を撫でるのだった。



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