White day | ナノ
あの人は今頃何をしてるんだろう。
一向に届かない連絡に唇を尖らせて、ベッドの上で何度も携帯の画面とにらめっこをした。

「元譲さん」

そう呼べば、去年は返事をしてくれた。でも、元譲さんは今は仕事の都合でここにいない。いわゆる遠距離恋愛だけれど、相手の仕事がすこし特殊なのが複雑だ。曹操さんに王異さんたちと一緒に、「軍人か!」と聞きたくなるような衣装に身を包んでいる。おまけに元譲さんはそれの軍団長らしい。
周りにいるラガーマンの楽進やかかりつけ医の曹丕さんとは全然世界が違う。というより国も違う。そんな人と夫婦未満の恋人関係ということが奇跡だ。出会いは話せば長くなりそうだから割愛するとして、とにかくホワイトデー当日、元譲さんから一切の連絡がなくて死にかけていた。

バレンタインの日は曹丕さんに無理を言って、曹操さんたちが駐屯する地へブランドもののチョコとマフラーを送った。そのとき私が贈るものを見て「随分と庶民的だな」と生まれた時からお金持ちの曹丕さんが嫌味を言ってきたから、そのことを元譲さんに報告してやった。
たぶん、あの人はバレンタイン以降仕事が増えてるに違いない。庶民的な嫌がらせをしてやったと満足。

……と、バレンタインのことを思い出して、目を瞑る。時刻は七時過ぎ。ゴールデンタイムも突入して、三月中旬といえど肌寒くなってきた。椅子に掛けていたベージュのカーディガンを着ようと起き上がり、ついでに紅茶を作ろうとお湯を沸かした。
テレビをつけると、申し訳程度に五分くらいホワイトデーについて特集したバラエティ番組。チャンネルを変えるとばっと明るいアニメがやっている。そのままにして、もう一度携帯を見た。元譲さんはメールをする人じゃないから、着信履歴を覗く。履歴はない。

(連絡できないけど、なんか手紙とか送ってくれたり……)

それはないか、と苦笑。
元譲さんがいない部屋は広く感じる。歌詞にでも使えそうな言葉が、どんどん溢れてくる。泣いたりとかはせず、気持ちは冷めていたのがおかしい。

晩御飯はまだ食べていない。空腹にお腹が鳴るけれど、先にお風呂に行こうと思い準備を始めた。こうなりゃとびっきり熱いお風呂に入ってやる。買い置きしていた入浴剤を選びながら、私は、背後で鳴っていた携帯には一切気が付かなかった。


おやすみ可愛い夢



浴室の前で脱いだ服をまとめていると、ドアの向こうから騒がしい音が聞こえた。瞬間、すべての行動を止めて耳音へ集中する。何、今の音。ぞくりと身震いして、扉に耳をあてた。大きな物音に、がさがさと袋をまさぐるような音。あからさまに誰か人がいるような音がした。

(鍵、閉めたっけ……)

元譲さんが帰ってきたかを確かめるにも、携帯はリビングのローテーブルの上に置いている。どうしよう……、とりあえず服をしっかり着ているのを確かめ、近場に置いてあったバケツを握り扉をしずかに開けた。

「なまえ、あがったか」

扉の向こうから、声を掛けられる。

「ひっ――!!」

バケツを持つ手が力を失い、腰が抜けてしまった。悲鳴さえも出ず、どくどくと駆け巡る血液で体は熱くなるが背筋は凍りついてしまった。反面この安心感。この声。鍵が閉まっていても開けられるたった一人の人物。

「おい、なまえ、大丈夫か!」
「っは、げ、元譲……さん」

大好きだったコーヒーの混ざった彼の匂いに涙腺が刺激されて、ぼろぼろと涙が溢れてくる。涙で歪んだ元譲さんは困ったように笑い、私を抱きかかえる。

「久しぶりと言うのに、お前はまったく変わっとらんな」

その声音があまりにも優しすぎるから、私はさらに泣いて、悔しいから彼のチェスターコートに涙を染み込ませてやった。



「落ち着いたか」

元譲さん特製のミルクティを飲んで、一息つく。瞼辺りがまだじんじんする。腫れてるな、と自分でもわかる。マグカップの中で揺れるミルクティの茶葉の匂いはいつもと違うものだ。元譲さんが駐屯していた地域で大人気の茶葉だという。オレンジを入れたり、マンゴーやグレープを入れても美味しいと聞いたことがある。もちろんストレートでもミルクでも至高だ。

「うん、だいぶ良くなった」
「そうか。……すまんな、無駄な心配をかけさせた」
「いやいや、連絡をチェックできなかったのは私だし、むしろ衝撃的な再会で思い出になりそうだよ」

あれほど待ち望んでいた連絡には気付かず、泥棒かと思いきや最愛の彼氏が帰ってきたという事実。忘れようにも忘れられるわけがない。そのことは秘密に、元譲さんが私の頭を撫でる。

「よく待っていてくれたな、なまえ」
「ふふ、元譲さんも」

大きな手が私の頭から頬に流れ、背中へ回るとそのまま体を引き寄せられた。ぎゅむ、と顔を彼の肩に押し付ける。懐かしい匂いがする。ときどき交換しあった手紙や電話、物からは元譲さんの匂いなんてしないから、かれこれ一年ぶりの温もりや匂いだ。
やっぱり元譲さんがいないと駄目だなあ。心に留めたつもりが口からこぼれていたらしく、元譲さんが鼻で笑って私の頬に口づけを落とした。同時に鳴る私のお腹の音。またおかしそうにあしらい、元譲さんは袋から食べ物らしいかぐわしい匂いのする物を取り出した。

「変わらんな」
「食い意地だけは変わらないって?」
「あぁ。だが、愛しさは膨れ上がったやもしれん」
「むしろ膨れ上がってよ、それは」

冗談ぎみに笑って、キッチンに向かう。持って帰ってきたものを並べると、即席リゾットとチョコレート、クッキー、ワイン、チョコレート、チョコレート……。デザートが多い中で際立つ即席リゾット。チーズとかカラスミではなく、即席リゾット。
意外と美味しそうなのが癪だ。

「鍋にこの袋を入れるだけ……、元譲さんは晩ご飯食べた?」

カウンターの向こうで荷物をまとめる元譲さんは首を横に振った。じゃあ、早速即席リゾットをいただこう。鍋に水を敷いて沸騰するまでの間、じっと元譲さんを見つめていた。伸びた気がする髪の毛に、洗うことしかできなかった私服を着ている感動。元譲さんが帰ってきた途端、元は彼のお部屋で、今は同棲をしているから二人の部屋になったここは賑やかになる。部屋とはまるで私の心自身だ。私が嬉しいと、部屋も明るくなるようだった。

リゾットの入っている透明の袋を鍋に浸しながら、元譲さんに「帰ってきて早々レトルトでごめんね」と謝る。着ていた制服を丁寧に畳んでいた彼は顔を上げると「気にするな」と言ってまた作業に戻った。

なんでこの人の一言ひとことに私の鼓動は十も百も乱れるんだろう。すっとした鼻筋に、息をするたびに上下に揺れる背中にドキドキして、力が抜けそうになる。
元譲さんが好きなんだなあと改めて確認しつつ、私は皿を二つ並べた。まだ熱い袋の端を切って、大きめのスプーンですくいながら盛っていく。せめて何か手を加えようと刻みパセリをかけてみる。あ、意外とそれっぽい。

まだ熱くて食べられないだろうし、元譲さんは片付けで忙しそうということもあって、残ったブイヨンでスープを一つ。保存してあったじゃがいもとブロッコリーを小さく切って、彼が持って帰ったチーズを刻んで少し入れる。部屋中に立ち込めるいい匂いに元譲さんが顔を上げたと同時に、テーブルにリゾットとスープを並べた。

「じゃあ、一年ぶりの食事ということで」

向かい合って座ることにも、懐かしくなる。元譲さんが頷くのを見て、私は微笑んだ。そうか、帰ってきたんだ。どんな仕事をしているか深くは知らないけれど、ときどき手傷を負っているのは知っている。そんな元譲さんの居場所が私と過ごす部屋って、奇跡でしかない。





電気もテレビもすべて消して、締め切った窓の向こうからときどき聞こえるバイクの音だけが、私と元譲さんの意識を鮮明にさせる。静まり返るとおかしくて、元譲さんの胸の中でくすくす笑うと、彼は決まって頭を撫でてくれた。

「嬉しいなあ、元譲さんがいるのって」

呟くと、頭上から「そうだな」と返事が降りかかってきた。もっと近付こうとくっつくと、すこし爽やかな匂いがして「おかしい」と思う。彼の輪郭を覆う髭をなぞり、私の肩の上に乗っているたくましい腕にそのまま手を這わせた。

「……なんだ」
「眠りたくなくて」
「珍しい。俺が不在だった間に何かあったのか?」
「ううん、特にはないよ」

悪夢を見た、とかお化けを見た、とかそんなことは一切なかった。でも、それより怖い日々を毎日過ごしてたんだと今更になって思った。元譲さんと遠距離になって昨日までは感覚が麻痺していたからか、平然と夜は眠っていた。携帯に記録してある写真を見て、すこやかに。
今はどうしても考えられない。手にいれた温もりが消えるだなんて。

「なまえ、もっと来い」
「もう寄れないよ」

すっかりと腕と腕に挟まれて、息苦しくなってしまった。嫌な感じにならない窮屈感は私の睡魔をよく誘った。元譲さんの匂いがする。彼の胸に手をあてて、瞼を落とす。

「お前は、手放せんな」
「……私も、そう思ってた」
「昨日には戻れんだろう?」
「うん、もう、怖いから耐えられない」

元譲さんは私の髪に指を通し、遠い意識の中でくつくつと笑っている気がした。

「もう、どこにも行かん」

ただそれだけを残して、最後にバイクが慌ただしい音をたててマンションの前を過ぎ去って行った。元譲さんの温もりが、離れていく感覚に包まれる。待ってとすがった頃には心地よい眠りに入っていて、幸せになっていた。元譲さん、おかえりなさい。そう心の中で唱えると、夢の中にまで現れて「ただいま」と彼は口端を上げた。



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