White day | ナノ
行き場のない悲しみや諦めの混じった感情が私を苛む。蝕みさえする。なまえはため息を落としながら、恋人でもある上官の噂に頭を痛める。このひと月で何度聞いたことだろう。

「郭嘉さまに美しいって褒めてもらって」
「郭嘉さまは私を受け入れてくれて」
……そんな言葉を朝から何度も耳にしたからか、ひどく惨めな思いをしたようだった。けっして郭嘉を讃える女官を見下すわけではなく、むしろいい情報を手に入れたと、なまえはうまく言えない気持ちで喜んでおいた。

郭嘉とそういった関係になってかなりの年月が経つ。月日ならまだしも、年月だ。出会った当初は「幼い」と言われたなまえも、すっかり心身共に成長をし、郭嘉に対してさまざまな感情を浮かばせるようにもなった。

なまえ自身、郭嘉の女遊びは仕官する前から知っていた。夜は「楽しいお店」に足を運び、お持ち帰りをする日もあれば、女性を肴に酒をたしなむ日もあった。なまえと付き合って以降はそういった遊びはほぼ無くなったが、ここ最近になって耳にするようになった。
一言でいえば嫉妬心である。同じくらいに不安にもなり、なまえは王異の元へ足を運んでは相談をしあった。


「……それでもあまりにも耐えられないから、今日は私の元へいらっしゃったのね?」
「そうなんですっ……!」

目の前で半べそをかくなまえに、甄姫はお茶菓子をひとつ渡した。「ありがとうございます」と包みを開き、ぱくりと食べる。棗を煮たものを、小麦をよく伸ばした皮で包み込んでいる。なまえは甘酸っぱさに頬を緩めると、甄姫は嬉しそうに微笑んだ。

「郭嘉殿も罪な男ですわね。なまえの表情をころころ変えさせるなんて、あの方以外にはいらっしゃらないのに」
「そうですかねー……」
「えぇ。例えばの話、なまえは我が君の前で幸せそうに笑えるかしら?」

想像した途端、なまえは全身から力が抜けそうになった。それは恐ろしすぎる。素直に口にすると、甄姫は夫人ならではの余裕を見せ「でしょう?」と笑った。
なまえは郭嘉の前ではよく笑い、泣く姿は見せずとも、怒ったりすることもあった。それは自分でも自覚することがある。

「なまえは、郭嘉殿といるときとても幸せそう。でも、それはあの方もそうですわ」

甄姫はそう言って、お茶を一口たしなんだ。
紅を引いている唇が色っぽい。なまえは思わず見惚れそうになり、もう一つ茶菓子を手に取った。包みを開きながら、

「奉孝殿が以前の戦で峠を彷徨ったときは、さすがに泣きましたけど」

と言って、口に放る。口内で弾ける棗の果肉が、なまえの頭をすっきりさせる。そういえば、彼といるとき、こういう甘酸っぱさを感じた気がする。言葉一つひとつに頬が緩んで、幸せになって、もっと欲しくなるのだ。

しかし、複雑な気分であった。あの時、烏丸征伐の途中、郭嘉が大いに体調を崩したことを思い出したからだ。峠を越えられるかを尋ねようにも華佗の姿もなく、ひどく途方に暮れていたことを覚えている。そこに朗報を構えてやってきたのは曹操だった。そのとき声をあげて泣いたことは郭嘉にも言っておらず、その場で慰めてくれた張遼との秘密にしている。
あのような思いはもう二度としたくない。郭嘉が戦場に赴く以上、似たような経験を再度する可能性が無いわけではない。それだけは避けたい、せめて、郭嘉の側にずっと……。
そんななまえの気持ちを悟ってか、甄姫はなまえの両手を優しく包み込んだ。

「あの時は仕方ありませんもの。けれど、なまえも強くなったわね。すっかり、郭嘉殿のご夫人のようになっちゃって」
「……違和感、ないですか? 今日、奉孝殿と噂を聞いた女官の人、とても美しかったんです」

朝のことを思い出して、思わずくじけそうになった。さらに先ほどの心痛も加わり、目尻が熱くなる。なまえは劣等感を抱くことが増えた、と郭嘉の容姿を思い浮かべながら、肩を落とした。誰もが振り返るあの容貌。しなやかな動きに穏やかな物言いは、たちまちその場に彼の世界を作り出し、気付けばたくさんの人が誘われてしまうのだ。
郭嘉は毒だ。なまえはそう言ったことがある。その言葉に、郭嘉は「むしろ蜜だと言ってほしいな。なまえのように、美しい蝶を誘う蜜、とね」と答えた。

肩を落とし、淋しそうに視線を落とすなまえの手を甄姫は強く握る。

「違和感どころか、お二方ほどお似合いな方はおりませんわ」

そう言われ、なまえは「甄姫さま……」と喜んだ。郭嘉に近付くために努力をしたことは、甄姫と王異以外知らない。だからか、彼女の言葉を聞くと勇気がもてる。
甄姫はにやりと口端を上げると、「なまえ、ごめんなさい」と謝った。「え?」と呆気にとられるなまえ。何やら背筋が凍った気がした。

「では郭嘉殿、なまえを大事になさってね?」

甄姫がそう言ったと同時に、室の扉はしずかに開いた。口がぽっかり開いたままのなまえの目には、話題の中心であり悩みの種であった郭嘉がいた。朝に会話を交わしたときより、熱っぽい瞳をしている。目を逸らすついでになまえは甄姫に訴えかけたが、彼女が口を開く前に郭嘉がなまえの手首を掴んだ。

「麗しいご夫人、素晴らしい情報を感謝します。お礼は、また今度」
「結構ですわ。なまえをよろしくお願いしますわね」

一体いつから手を組んでたんだ!
なまえは冷や汗をかきながら、自分の手首をしっかりと掴む郭嘉を見た。にやりと笑う彼を見て、あぁ、逃げられないと確信をした。





「さて、なまえ。あなたのその可愛らしい唇から質問はあるかな」

郭嘉の執務室に連れ込まれ、開口一番はそれだった。なまえは一歩後ずさり、「話はどれだけ聞いたんですか」と問う。郭嘉もまたその一歩を踏みしめ、怪しげに笑んだ。

「もちろん、全部だけれど」

平然と言いのけ、郭嘉はなまえとの距離を確実に詰めていく。なまえはどうしたらいいかも分からず、どん、と背中に文机がぶつかったのを理解し、苦笑した。

「なまえは随分と我慢をしていたんだね」

耳元で囁く声にびくりと強張り、体が卓上へ傾いていく。どうにか抜けようと郭嘉の肩を右手でおさえるも、その手は彼の手によってとらえられ、膝の間に郭嘉が割って入ってくる。
距離のない美しい顔に、なまえは心臓が潰れる勢いだった。ばくばくと高鳴る心音は何をしていなくても耳まで届く。
おまけに郭嘉が詰め寄るたびに背中が痛い。だが、言えるわけもなく、むしろ言いたくないと思った。

「なまえが私のために涙を流したこと、私と噂のある女性に嫉妬をしていること。……すべて、たまらなく嬉しかったよ」
「奉孝、殿……」

触れ合うか触れ合わないかの距離が、もどかしい。潤んだ双眸は郭嘉をとらえ、離すことはできなかった。

「しかし、釣り合わないかもしれない、なんて悩むのはいただけないね。むしろ、私が心配をしたいくらいだ」

郭嘉はなまえの右手に指を絡ませ、微笑んだ。唇にすこしだけ触れ、そのままなまえの体をまっすぐ立たせると、卓上にある大きな包みを持ってきた。

「これは……」
「なまえに似合うと思って、仕立ててもらったのだけれど」

そう言って、隣に並び包みを開いた。手触りのよい絹の布を包みに使っている。中のものに緊張しながら、その中身を待った。
やがて布が卓に敷かれると、上に乗せられたのは鮮やかに彩られた衣服ということが分かった。なまえは衣の手触りを確かめ、指先に痺れが走る。郭嘉の方を見ると、口元は笑んだまま珍しく緊張をしているようだった。

「婚儀用に取り立てたんだ」
「……期待、してもいいですか?」
「おや、期待をしてくれるなんて、こちらこそ期待をしてしまうね」

なまえの言葉に緊張をわずかに和らげた郭嘉が、淋しそうな両手を包んだ。とくんとくんと心音が鳴っているのはどちらか。息を呑み、包まれる両手から全身へ広がる熱を感じながら待った。
静まり返る室内、回廊では春を告げる小鳥が鳴いている。これが人生の終わりというわけではないのに、郭嘉と過ごした日々が鮮明によぎった。なんて輝いていた日々なのだろう。なんて、私の心に光を灯す人なのだろう。なまえは、呼吸さえも震えた。そして、郭嘉はなまえを真っ直ぐ見つめた。

「私と共に、この身が朽ちるまで永遠に、――側にいていただけますか?」

照れ臭そうに、幸せそうに郭嘉は言う。なまえも釣られて笑うと、はじめて郭嘉の前で涙を落としながら、

「ずっと、側にいましょうね」

と言った。
穏やかな春の正午、格子窓から射し込む日差しに影が揺れるのをなまえはぼんやりと見つめていた。郭嘉の胸に耳をあてると、確かに波打つ心音が聴こえる。柔らかな膜に包まれ、ほのかな甘酸っぱさを感じた。

待ちくたびれたお姫様


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