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緑の衣服――出会った当初、淵師が着ていた衣服を彼女に渡した場合、すなわちそれは淵師を蜀からの間者と見なしたことにする。そう告げたのは郭嘉であった。
于禁はそのことを知っていた。ただ、曹操たちがここまで動いていたことは知らなかった。ゆえに、于禁はそれに賛同する周りの反応を見た際、まるで自分たちは淵師が来たあの日から彼らの手中で踊らされていたのではないか、と思えた。

于禁こそ淵師が怪しいと思わなかったわけではない。都合の良すぎる出会いに、淵師のまとう格好、そして、書庫にて淵師が読んでいた書物が曹魏にとって他国に知られてはならないというものだったこと。
だが、それだけではおかしいと思うのは于禁だけでなく郭嘉たちもであった。


「……何故」

傍らにいる淵師が、声を震わせてつぶやいた。于禁はぼんやりと空を見て、同じ言葉を自分へと掛けた。何故。一体何を思って、淵師を城の外、それも鬱蒼と茂る森の中へ連れ出したのだろうか。
あのまま淵師のいる室へいてはいけないと判断した于禁は、すでに生きることを諦めていた彼女の手を引いていた。時刻は日が暮れる頃であった。なるべく怪しまれないように、二人で町に出るという話を出会った部下にしながら、于禁は罪悪感に苛まれていた。

「于禁さま、お帰りください。このようなところを見られたら、裏切り者と間違われます」
「……」

淵師は元より蜀に見捨てられていたのではなかろうか。と、于禁は目を瞑った。確かにあのような格好は敵国にとって興味を引く材料でしかない。敵の者だとわかるのだから。ただ、あえて敵だと分かって忍ばせるのは、死ぬことを意味している。于禁はそう思うたび、歯痒くなる。不気味なまでの嫌悪が胸に湧き上がるのだ。

「于禁さま」

淵師は、それを知っていたのだろうか。

「淵師は厳として死を求めるか」
「……死は、求めておりません」
「では、何故曹魏へ侵入しようと考えた。誰の差し金だ」
「それは言えません。いくら、于禁さまでも」

そのとき、暗闇の中でも淵師の左手首に飾られる腕飾りが光るのが見えた。ああ、このような物があるから動揺するのだ。
控えめに好意を抱いた相手への贈り物は、于禁に不愉快な幸福感を与える。それが心を蝕み、幸せだと思わせるのだった。

「……お前を、見逃そう」
「何を」
「私の手違いで淵師という敵を逃がしてしまった。すべて私の情が不明であったことが原因であった。……早く行け」

そして、二度と姿を見せるな。
于禁はその言葉だけは飲み込んでおいた。それは同情なのかもしれない。淵師が自由になってから時間は数日しか経っていない。彼女が情報を渡したという兵士も、郭嘉らの余裕の表情を見る限り駆除をされたのだろう。それならば、敵に闘争心だけを残して帰ってきた間者には居場所がないのではないか。まして、手ぶらの状態なのだから。
しかし、淵師は唇を噛み締めて、

「なりません!」

と、きつく言い放った。その瞳は、強い意志を宿していた。于禁はそのまま押し黙っていると、淵師は意志を孕んだ瞳を細め、ふわりと微笑んだ。

「……私を、殺してください」

淵師の言葉に返事をせず、固く唇を結んだまま空を仰いだ。白い粉雪が、降りかかっている。


S.S



ふんふんと鼻歌を歌って、淵師は木陰で家族のことや自分のことを語っていた。于禁はただ何も語らず、彼女の声に耳を済ましながら相槌を打っていた。肩にはわずかに雪が積もっている。
淵師の声は心地よい。頬と胸に広がる熱はゆるやかに溶け込み、春に鳴く小鳥のさえずりのようだと、于禁は思った。あいにくの天候で心持ちは最悪であったが、淵師が雪は好きだと言うので、今後の印象が変わりそうだと口元を緩ませた。

すでに二人に残された時間はごくわずかで、淵師の次のお喋りで終わりだろうと、二人の間に緊張が走っている。

「この、腕輪ですけど」
「うむ」
「なんだか、皮肉めいた美しさを持ってますよね。きっと何物よりも美しいのに、色が緑と青って……」
「あぁ、そうだな」

そう言って于禁は、淵師の前に膝を下ろした。視線の高さが同じになり、こうしてまっすぐ見つめるのは初めてだと何とも言えない気持ちになった。
そのまま彼女の手首を握り締め、さらに暗くなった景色に浮かび上がる白の輪郭をなぞった。淵師がくすぐったそうに笑っている。

「私、いつも于禁さまは怒っているのだと思ってたんです」
「この顔は変えられぬ」
「ふふ、眉間の皺もそうだったんですけど、毎日まいにち私のところに来てもらってて……」
「……そうだな、最初の頃は最悪な気分であった」

正直に言うと、淵師はおかしそうに目尻を下げたのだった。「ですよね」と。すこし、涙を滲ませて。

「……そろそろ、話はしまいか?」
「えぇ、はい。そうだ、これ……」

立ち上がった淵師は、于禁に文をひとつ渡した。

「これに蜀の情勢が書かれてます。無断で私を処罰したことに罪を問われた場合、これを曹操さまに渡してくだされば、何とかなるかと」
「……あぁ、頂こう」

文をしまい、代わりに于禁は短刀を取り出した。このような展開になるとは思っていなかったため、護身用の短刀しかなかった。

「……于禁さま、最後にお願いを聞いてくださいますか?」

唇が震えている。それだけではない。淵師は、死ぬことを真っ向から恐れていた。だが私情を持ち込んではいけない。于禁は声を抑えて平然とした態度で「なんだ」と答える。

「腕輪は、つけたまま死なせてください」
「……当たり前だ」

于禁はやはり声が上ずってしまった。このように情に流されていては、まだまだ未熟だ。そうは思っているのだが、なかなか淵師の顔を見ることができない。やがて遠くから騒々しい音が聞こえ出していた。少なからず、知り合いの将はこちらに向かっているだろう。

「では、于禁さま」

震える手に、自分の指を絡ませた。

「……あなたの、幸福を願って。どうか、信念を裏切らないでください」

それが淵師の最期の言葉であった。于禁は短刀を彼女の胸に突き立てた。音もなく後ろに倒れていく淵師を、歯を食いしばりながら見ていた。
艶やかな髪が、鮮やかな赤の唇が、すべて于禁の心を縛った。だが、淵師の左手首にある腕飾りを外した時、まるで枷が外れたように自由になった気がした。

(そうか)

結局、于文則という男はこうであるのか。
于禁は淵師を抱き寄せ、すぐ近くにあった雪の積もる地面へ移した。きっと彼女は静かに、ゆっくりと溶けていくのだろう。

背を向けて近くの崖へ歩み寄った。「見つけたぞ!」という声が聞こえたため、淵師が見つかったのだとわかった。あとで首は繋いでおけ、と于文則らしく冷酷に言わなければ。于禁はそう思い、淵師の腕飾りをかざした。

(自由に羽ばたくと良い)

そのまま手を高く高く振り上げた。緑と混色したような青が、空高く舞い上がり、飛び立ったように見えた。やがて雪と同じ速度でそれは崖下の川に落ちて行くのを、しっかりと見届ける。
それはしたたかな終わりを告げるものであった。不思議な感覚である。先ほどまで語り明かしていたというのに、もうあの温もりも、笑顔も見ることはできないのだ。残された選択肢とは、忘れていくことばかりで、于禁は己に耐えられるかと問うた。すぐに「耐えられる」と答えた。

ついでに、と于禁が懐から取り出したのは淵師から貰った文であった。それも破り捨て、風に委ねた。

自由だ。心底から確信した。
一生己の心を縛り付ける柔らかな呪縛。于禁は瞬きを二度して、兵の声がする方へ歩んで行った。于文則として、信念に忠実に生きることを誓って。




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