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あの日以降、淵師と于禁が出掛けることはなかったが、あづまやまでならば一人で向かうことは許可された。おかげでたくさんの人と会話をする機会が増えた。
まず夏侯惇である。「元気にしていたか」と言われ、とてつもなく驚いたのは今でも互いの会話の種となっている。
次に郭嘉と甄姫であった。郭嘉については見慣れない女性とのことで声をかけてくれた。「于禁殿に気に入られるなんて、あなたは興味深いね」と言われたものの、以降声をかけられたことはない。甄姫は逆に熱心に喋ってくれている。旦那が曹丕と聞き、淵師はこれまたひどく驚いたのだった。「大丈夫ですか?」と聞くと、甄姫は慣れている質問だからか、笑いながら「女としての幸せを感じてますわ」と返した。

淵師はだんだんとこの国のことを知った気でいた。愛しくもなってきていた。同時に焦燥感があったのは確かだ。自分にはやるべきことがある。こうして自由になった以上、時間がかかってでも……。

「淵師」
「あっ、于禁さま」

あづまやへ向かう途中、呼び止められたため振り返った。そこには于禁がいた。相変わらずの渋い表情だ、と淵師は微笑んだ。声だけで于禁だとわかることが淵師にとっての誇りである。

「近頃、不審人物をここで見かけるとの情報がある」
「不審人物……?」
「うむ。故に夜間でのこちらへの立ち入り禁止は城内でも呼び掛けられているが、既に聞いていたか」
「いえ、まだでした。わざわざありがとうございます」

于禁に礼を言うと、「お前には息災であってもらわねば困る」とそっけなく答えたのだった。その言葉は淵師にとってたくさんの見解があった。元気でいてほしい、と、私に何かあっては無駄な仕事が増える、ということ。どちらともという可能性が高いが、個人的には前者でいてほしい。淵師はもう一度「ありがとうございます」と言って、拱手をした。

そして立ち去る于禁の背姿を見送り、裏庭から静かに書庫へと足を運ばせた。書庫は人がほとんど訪れず、やって来たとしても女官や軍師ばかりだ。話が弾む者ばかりだから、淵師はそこが好きだった。


書庫へとやって来ると、淵師は目に入った書物をいくつか手に取り、奥にある椅子へ腰掛けた。今から読むものはこの国の情勢について書かれた書類であった。なんとなく気になったから、と言い聞かせ開く。
ぱらぱらとめくる程度に流し読みをし、見なかったことにして淵師は他の書物を開いた。

「淵師、か」
「っ、!」

声にならない悲鳴が身体中からあがった。
ほとんど聞いたこともない声。それなのに、私の名を知っている。淵師は振り向くと、そこにいる人物に目を見開いた。

「そ、曹丕さま……」
「ふ、ひどく恐れているな」

急いで拱手をし、書物を背に隠した。

「怯えずとも良い。父からは話を聞いている」
「……」
「甄が随分とお前に世話になっているようだな。お前のことをよく話す」
「そう、でしたか……」

本来なら喜ぶべきところなのかもしれないが、思考が止まったままの淵師には早くこの瞬間が終わることしか考えていられなかった。曹丕は皮肉めいた笑みのまま、淵師に一歩近付く。

「お前の傍にいるのが于禁ということに、感謝をするといい。郭嘉か仲達、賈クであったならばどうであったろうな」
「曹丕、さま……?」
「いや、もしや知っているのかもしれぬ」

ごくりと唾を呑んだ。何を言っているのだろう、この人は。もしかして不審人物に思われているのだろうか。まさか、知り合いもいない私が疑われるわけない。必死に曹丕の目を見つめ返し、やがて鼻で笑った彼が出て行くのをしっかりと見届けた。なんて嫌な背姿だろう。
淵師は両手で顔を覆い、壁にもたれかけた。椅子も、壁もすべて凍てつくように冷たい。今の瞬間だけで自分自身が凍りつき、疲れ果てたようだった。

帰ろう。あの、もったいないくらい上質な寝台がある室に。そしてもう少しでやってくる于禁との時間のため、体力を回復させよう。淵師は立ち上がり、書物を片付けた。とうとう、持って帰る気力もない。


▼△▼



「殿から物を預かっている」

于禁との会話の途中、突然の言葉だった。預かり物だなんてあっただろうか。とりあえず受け取ろうと両手を差し出すと、于禁はその手に大きめの布袋を渡した。

「これは……?」
「開封するといい」

于禁自身も何が入っているのかは知らないようだ。厳重に縛られた布をほどくには時間がすこしかかりそうだった。

「つけているのだな」
「え?」

視線の先をみると、そこには于禁から貰った腕飾りがあった。変わらない輝きを放つそれを、あの日以来淵師は手放したことはない。

「気に入ってますから」

これを貰ったことも淵師の誇りだ。そうして包みをほどき、そこにある衣服をいくつか手に取った。緑色の着物に、橙の帯。
瞬間、淵師は全身が粟立った。「これは」と言ったのは、于禁の方であり、淵師は先に言葉を失くしてしまっていた。

「……なんでしょうね、これ」
「淵師」
「曹操さまからまさか衣類を貰うだなんて」
「淵師!」

左手首をきつく掴まれ、淵師は驚いた表情を浮かべながら于禁を見つめ返した。
あぁ、終わりだ。そういえば前もこんなことを思った気がする。でも、今回こそは終わりだ。
淵師はどこで間違ったのかと考えた。答えはすぐに分かった。この国を愛しいと思った瞬間。心を鬼にできなくなるほどに好きになってしまった男の正体。

「……お前は、記憶を失くしていないのだな」

ここで、于禁はどう言ったら喜ぶのだろうと考えた。そうだ、彼は嘘は嫌いだろう。たとえ泥を被ろうとも、己の信念を突き通すような人だ。

「……はい、于禁さま」

だから、私も泥を被ってでも彼に好かれる女になりたいと願うのだ。淵師は彼に掴まれたままの左手首を見た。あぁ、どうしてこんな時までその腕飾りは輝くのだろうか。


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