S.S | ナノ




以前よりもことさらに激しい冬が訪れるようになった。今日の日和は晴天であるが、少し前に吹雪いたため、雪が残っている。淵師は相変わらず退屈そうに書物にふけり、この国の情報を集めていた。
于禁が来るのはもう少し時間が経ってからになるだろう。面倒くさいと直接言われたことはないが、大変ではないのだろうか。素性も不明の女に対して毎日の体調や記憶、ついでにちょっとした世間話をすること。まして、于禁は喋り上手な方ではない。
新しい書物も読み終わり、閉じる。視線を窓の向こうへ寄せて、冬の陽射しに溶け込む雪景色に想いを馳せた。
その時だった。扉の向こうから、聞き慣れた声が響いた。

「淵師、入るぞ」
「え、はい、どうぞ」

それは于禁であった。思ったより早い来訪に戸惑うが、やはり扉を開けたのは彼自身で、もしかして今日は何かあるのではないかと疑問を浮かべる。

「お前に二つ質問がある」
「質問……。あ、そちら、腰掛けてください」

客人であり立場の低い自分が言うのもおかしいが、于禁は構わず眉根を寄せたまま椅子へ腰掛けた。質問とは何のことだろう。もしかして私の記憶について何か……。

「己の容態について疑問に思うことはあるか」
「いえ、ありません」
「では、何か私的な用事は」
「そちらも、特には」

答えると、于禁は「ふむ」と考えるように唸り、顔を淵師の方へと向けた。

「本日より、淵師の外出を許可する」


▼△▼


ざくざくと踏み締める地面は、雪に覆われていた。城門へ向かうまで三度くらい転倒しかけたが、すべて于禁が助けてくれたため、怪我はない。
淵師は久しぶりに温かい大地を踏んだと喜んだ。今までは室か、湯浴みをする際や蔡文姫の元へ訪れるときに、堅く冷たい石床を歩くだけだった。厩、さらにあづまやさえも許されず、淵師は常に地面に焦がれていた。

思わず漏れる鼻歌にはっとなり、于禁の前ではしたないと思ったが、本人は特に気にした様子もなく淵師の後ろをついてきていた。

于禁が出した外出への許可には条件があった。
まず、于禁自身が同伴すること。城門を抜けてすぐにある街までの範囲であること。それら以外は、特にないそうだった。

城門は開かれており、抜けると、淵師の視界には賑わう街並みが見えた。通る人並みは小ぶりではあるが、それでも淵師の心には柔らかな刺激を与えるには十分である。

「于禁さま、すごく活気に満ちてますよ!」
「あまり騒々しくするな」
「あっ、そうですね……!」

つい親しく語り掛けてしまったが、于禁の言葉に、自分は彼に怪しまれているということを思い出す。こうして外に連れ出したのも、刺激を与えることで記憶を取り戻すかもしれない、とのことだった。
淵師は一度は落ち込んだが、すぐに前を向いて歩き出した。この街は言葉通り活気に満ちている。すこしお腹が空いていることは秘密に、洒落た飾り物や、調度品を売る店が並んでいた。

「あ、あの人の衣装綺麗……」

独り言のように、淵師は隣に並ぶ于禁に喋る。後ろについてきているよりは、隣にいる方が嬉しく、心強い。

「すごい、この首飾り。あぁ、これなんか于禁さまに似合いそうですよ」
「……」

冗談で手に取り、于禁の首もとに掲げる。
わずかに眉は寄ったが、特に何も言われないため他の首飾りを見た。
やがて腕飾りへ品が変わると、その商品の一つをとったのは于禁であった。

「これは、お前に似合いそうだ」

呆気にとられる淵師に、于禁は「なんだ」と不機嫌そうに言う。なんだ、なんて。むしろこっちが何と聞きたいくらいだ。
渡された腕飾りには黒い点々の入った緑の石が中心に飾られて、辺りを青の石が囲んでいるものだった。二人の前にやってきた売り子が「このような石はめったに手に入らない」というのを、淵師は受け流すように聞いていた。綺麗だ、とそのことばかり考えていた。
そんな腕飾りを似合うだなんて。于禁の言葉を思い返すたび恥ずかしくなり、淵師は腕飾りを外すと礼だけ残してその場から立ち去った。
売り子に見送られつつ、街並みを先ほどよりも早めに歩いていく。

于禁には申し訳ない思いでいっぱいであった。日頃から世話になっていることを筆頭に、雪の件や、今日の外出の件が並ぶ。どれも記憶のない私がしてもらうことではない。と、淵師は思った。私などはむしろ室にこもって記憶を取り戻す作業に移るべきだと。

「淵師、どうした」

背後から声をかけられ、足を止めた。さらに一通りの少ない場所へと来てしまっていた。

「い、いえ……」

淵師は言葉に詰まった。
于禁の好意に甘えることがこれほどまでに苦しいものなのか。嫌われたくないということはもちろんあるが、もう嫌われていると諦める自分もいた。

「言葉にせねば分からぬ」
「……すこし、もったいないなって、思ったんです」

あぁ、終わりだと淵師は思った。女であるからか、淵師の性分か。一度高ぶった場合、口を開いてしまうと止まらなくなる。

「于禁さまは、私が来るまではこうして時間を無駄にするように街に出ることなんてなかったと思うんです。客人でもないくせに、記憶を取り戻す努力もしない私が、よく外に出たいなどとわがままばかり……」
「淵師、何を」
「なんだか申し訳なくて……」

苦笑をしながら、淵師は自分の首を撫でて俯いた。何かをしていないと落ち着かなかった。

「……そうして悩むことこそ、時間の無駄であろう」
「え?」

掛けられる言葉に淵師は顔をあげた。
珍しく眉間の皺を緩めているようだった。

「斯様な節介もいらぬ。殿がお前を客人と見なした以上、もてなすことは国の者として当たり前のこと。記憶がなかろうと、関係はない」
「于禁さま……」
「……ただし、外出が嫌とあるならば帰宅することも選択肢だ」

咄嗟に「そんな、それこそ嫌です!」と返すと、瞬間、于禁が笑ったように見えた。控えめに、温かい眼差しに包まれたような。淵師はままなき、視線を泳がせた。

「それほどの元気があれば大丈夫だろう。街へ戻るぞ」
「は、はい」

そういった淵師の照れ隠しには一切の反応は見せず歩いていく于禁に、今度は淵師が横に並んでついていった。そして、もう一度確信をする。
この人が、私を見つけてくれて良かったと。

そう思った矢先、于禁は歩みを止めた。
何事かと振り向くと、于禁は怪訝そうに眉を寄せ、淵師を見ていた。また何かしてしまったのかと不安になる。しかし、その考えは杞憂であると教えてくれたのは、紛れもなく彼自身だ。
懐から取り出した布包を手に、于禁はそれを淵師へ差し出した。

「これを、淵師に」
「…………えっ」
「何を驚いている」
「いえ、だって……、于禁さま、優しすぎませんか……」

申し訳ない、と思ったものの、申し訳ない申し訳なくない争論は終わったのだった。それでも淵師はやはり于禁の優しさに疑問を抱いた。

「受け取らぬのならばこれは廃棄しよう」
「あー、駄目です、欲しいです!」

急いで受け取ると、于禁は心無しか満足そうに見えた。ただ、淵師が包みを開くことからは顔をそらしていた。反応は見たくないらしい。
淵師はこの包みの中身を知っている気分だった。そして包みを開いたとき、淵師は特に驚きもしなかった。

「嬉しい……!」

純粋に思った感想を率直に述べると、于禁ははっとした表情で淵師を見返した。なるほど、彼にとっては予想以上に良い反応だったようだ。ふふんと心の内で于禁の反応に喜び、先ほどまで見ていた腕飾りを手に取った。ちょうど陽が昇っていたため、輝かしい光が淵師の目に映り込んだ。

「今つけていいですか?」
「それは淵師のものだ。淵師のしたいようにすれば良い」

そう返され、わくわくしながら淵師は手首に鮮やかな飾りをほどこした。なんて綺麗で、私の好みのものなのだろう。于禁を一瞥し、くすくすと笑った。

「于禁さま」
「これをつけて、お昼は于禁さまおすすめのお店に行きたいです」
「……我が儘な客人だな」
「ふふ、すみません」

それでも許してくれる辺り、やはり于禁さまは優しい。淵師は心に広がる温かさを感じながら、于禁が歩く隣に並んだ。左手に、緑と青の石に彩られた腕飾りをほどこして。


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