S.S | ナノ




私の身は、于文則という男が預かることとなった。何やら、彼の駐屯地であった土地から許昌へ移動する道中に、地面に横たわっていた私を拾ったのが彼だったようだ。本来、その土地には夏侯惇殿がいたという。緊急で于禁殿に変えたようだ。果たして、それは幸か不幸か。于禁という男はある一定の規則に従う者と聞く。その分、鬼のように厳しく、すこしでも怠ければ厳罰に処されるようだ。

内心、あの夏侯惇という男でなく良かったと思う。彼は一番曹操殿に近しい人だ。ほんの少しの怪しい動作でさえ、報告されるかもしれない。そういう点ではまだ于禁殿の方が良かった。


▼△▼



「淵師、我が部下を無断で引き連れたと耳にしたが」

怒りのこもった無愛想な掛け声に、淵師は急いで振り返った。記憶を取り戻すまでの間は魏に忠義を誓うことを約束されてから、淵師に与えられた豪勢な客室にいたのは于禁であった。淵師は書物を読み漁っていた。かれこれここに滞在をしてからひと月は経つため、彼女が読んでいたものは、仲良くなった蔡文姫に勧められたものであった。
その書物を閉じ、淵師はごくりと唾を飲む。

「……申し訳ありません」
「誠と言うのならば、お前を罰さねばなるまい。しかし、何故、引き連れようと思った。お前には付きの女官がいるであろう」
「ええと……、その、いろいろお話をしたくて」

我ながら図々しいな、と淵師は心の中で苦笑した。このような適当な理由に納得するわけもないと諦めもした。于禁はやはり喉元から唸り声のようなものをあげている。心底から怪しんでいる様子であった。
場合によってはこの時点で曹操に報告をされてもおかしくはない。記憶がないことを偽って、復讐をしようと反逆することを企てた可能性もあるのだから。淵師はそんなくだらない想像をし、鼓動が早まるのを感じた。

「……このことはお前だけでなく、我が隊の責任でもある。故に今は勝手な無断行動を大目に見るが、次はない」
「ほ、本当によろしいのですか?」

淵師の問いに、于禁が頷くことはなかった。きらきらと瞳を輝かせて見てくる淵師を于禁はじっと見返し、相変わらずの厳しい表情のまま客室から出て行った。

扉が閉まれば、淵師はひどく疲れた様子で寝台に倒れた。誰が好き好んで他人と関わろうか。けっして悪いことをしていたわけではない。この国に興味を持ったため、いろいろとこちらの情勢について問いただしていたくらいだ。確かにそれだけ聞くと、淵師は怪しい人物だ。ただ、理由を聞かなかった于禁はそのことを知らない。

人に聞くのはもう駄目だな、そう思い書物の続きに目を通す。この室での生活には一切の不満はなかった。人と関わることを禁止されていた淵師にとって、喋ることのできる相手が女官と于禁、それとよほど信頼をされているのか、蔡文姫がそうであった。



そうした生活がさらに続き、冬の厳しさはさらに過酷なものとなっていた。淵師は雪が降っていることに毎日幸福を感じていた。幻想的な景色は、格子窓からであっても刺激を与えてくれる。幸いにも淵師がやってきたのは冬の頃であった。これが、もし夏の日であったら……。淵師はそう思うたびに、冬に感謝をしている。

「于禁さま」
「何だ」

一日に一度ある于禁との会話の最中、淵師は寝台に腰掛けながら、扉の前に立っている彼へ問いかけた。

「おこがましいと思われるかもしれませんが、あの、外に出ることって絶対駄目なんですか?」
「駄目だ」

即答であったため、淵師は不機嫌そうに眉を寄せて、履いている靴の先を見た。

「私の管理は于禁さまですよね」
「外出禁止令は私が考えたものだ。特殊な状況でない限り、外出許可は出さぬ」
「雪に触りたいんです」

わずかな望みを同伴させ、淵師は言ってみた。しかし、于禁は首を振るだけであった。うなだれてしまう事実であったが、やはり仕方ないと言い聞かせ、陽の傾きを見た。

「于禁さま、そろそろ」
「……」
「于禁さま?」

ぼんやりと遠くの方を見る于禁に淵師は何度も声をかける。ようやく振り返ったのは、五回呼び掛けたときであった。
さすがに、こういう状態になる于禁を見るのは初めてであったため、心配する反面、申し訳なくなった。
毎日決まった時間に于禁は現れる。蔡文姫に限っては暇ができたとき、女官は淵師が呼ばない限りいない。淵師にとって、于禁が来ることは日々の楽しみであった。しかし、于禁にとってはどうだろうか。見ず知らずの女の面倒を見ること。まして、勝手な行動をしてはわがままを言う私を。と、淵師は考え込む。今度は、于禁が声を掛ける番であった。

「淵師」
「は、はい」
「……いつか、お前にも自由は訪れよう。今は苦難であろうと、諦めてはならぬ」

「于禁さま」と、情けない声が漏れた。なんて優しい言葉だろうと。外では雪が降りしきり、肌を刺す冬風が吹きすさんでいる。中で、淵師は暖かくなっていく気がした。
于禁はそれだけ言い置いて、退室をする。その背姿は立派なものだと今更気付いた。
そのまま視界を外の世界にある雪景色へ向けると、やはり羨ましいと焦がれる気持ちがよぎった。あのとき私が倒れなければ。于禁も思っているだろう。
私を拾わなければ、と。そう思うたびに淵師はひどく自分を責めてしまっていた。だからと言ってどうするわけでもなく、脱走などもせず、淵師はここにいた。脱走をできる環境ではなかった。
曹操に生きることを誓った際、すでに淵師はこの国の者のように扱われるようになっていた。それは、遠回しに拘束をしているようなものであった。



後日、淵師が起床をして寝台から体を起こしたとき、卓上にあるものを目にした。見慣れない小さな樽であった。申し訳程度に身支度をし、何枚も上に衣服を重ねる。ようやく暖かさを取り戻したとき、淵師はその樽を覗いた。

「わぁ……!」

思わず目を見開くほどに、樽の中には雪が入っていた。誰が、と考える間も無くこのような行為をした人物がわかった。けっしてあの人が雪に直接触れなくても、女官にでも伝えたのだろう。「明日の朝、雪を小樽へいれて淵師に」と。そう考えるだけで、淵師は嬉しくなった。つい、頬が緩んでしまっていた。
わずかな量であれど、これで雪うさぎでもなんでも作ることができる。投げることはできなくても、楽しむことはできる。

淵師はその白の結晶に触れ、「冷たい」と漏らしながら両手でもてあそんだ。
また次に出会うとき、何かお礼をしなければならないと思いながら。


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