雪が溶けていく様は、手にかけたとき分かる。手のひらにて透明な液体へと変わる様を、淵師はしずかに見ていた。宮の中庭にある草木は葉を隠し、眠っているようだった。花が風に揺れる。花弁を一枚落とし、積雪の上に色を散りばめていく。 白い息を吐いて、いよいよ苦手な季節の最骨頂へと到達したのだとため息を落とした。 「淵師殿」 「……はい」 雪は人の心に憂いを持たせる。日頃、風景などに目もくれない人に限ってそうだ。 「こちらの準備は済みました。あなたはどうですか?」 男は問うため、淵師は何事もないように首を振った。 「大丈夫です。緊張するだけで……」 本心は相手への文句と共に、どっと疲れが押し寄せていた。それに気付かないあたり、相手は鈍感なのか、淵師の隠し事がうまいのか。彼女には気持ちをうまく出さない、ある種の才能があった。 肩に積もる雪を払おうと手を差し出す男は、申し訳なさそうに小声で言った。 「このような無茶な任務を寄せてしまい、すみません。あなたには感謝をしてます。どうか、あの方の天下のため」 淵師は目を逸らし、逃避するように唇を震わせた。 「……わかってます」 「では、頼みましたよ。健闘を祈ります」 拱手をする男がいなくなるまで、視線で見送る。やがて宮へと戻ると、彼女の心臓がどくりと疼いた。淵師は男より厚着をしていたにも関わらず、身体中の震えが止まらないほどに寒気が背筋を走っていた。 今から国のために淵師は命を張る。それがたとえ、居場所のない国であろうと。 ▼ 冷え切った牢獄に閉じ込められ、三日が経つ。与えられた上品な衣服に、たくさんのかけ布があるため寒いとは思わなかったが、淵師の精神をすり減らすには十分であった。 淵師は幽閉されていた。手足は麻縄できつく縛られ、身動きは封じられている。ほどかれるのは人としての生活を行うときだけであった。食事や湯浴みを終えれば、すぐに縛られる。 ほどかれた際に脱走をすることを淵師は何度か考えた。しかし、淵師には帰る先もこの国の地理も知識になかったのだ。彼女を幽閉する国、それはあまりにも大きすぎる。 「淵師殿、時間です」 声が掛けられ、淵師はいそいで立ち上がる。一度は殺されるのかと思ったのだが、彼女は一度も兵士に怒鳴られたことや乱暴に扱われたこともない。何よりこの特上な扱い。それには疑問を抱いた。 麻縄をほどかれ、手足が自由になる。固まった筋肉をほぐそうと、揉む。そのとき、兵士は横からしずかに告げた。 「曹操様がお待ちです」 案内されるがまま道を進む。改めて、初めてやってくる土地に想いを馳せた。地面を踏み締めるたびに、がりがりと枝を折る音がする。あまりにも乾いて、新鮮だ。淵師は久しぶりに浴びる陽の光に、身体中から疲れが抜けるようだった。 「こちらをまっすぐお進みください」 兵士の言葉に頷き、淵師は歩き出す。大きな室を構えて、曹操は椅子に腰掛けていた。傍らにはご子息である曹丕に、腹心である夏侯惇がいる。初めて歩む曹魏の場内。頂点に君臨する男の前に、今立っている。 ぴりぴりと、肌を刺すような痛みを感じた。毒を盛られたわけでもなく、これは彼らが出しているものだと分かった。 「……名を申せ」 曹丕がしずかに言い放った。 どこかの国の従者と疑っているのだと淵師は理解をした。急いで淵師は彼を見続け、口を開いた。「淵師と、言います」と。その後、曹丕はその名を一度呼び、どこの国の者か、と質問をした。 「お前の着ていた衣服を見る限り……」 「子桓」 淵師からは聞こえない距離で、曹操は曹丕の言葉を奪った。何事かと疑問に思ったが、とりあえずはどこの者かを答えなければならない。地面を見つめ、頭を悩ませる。国の名こそ知っているものの、淵師自身がどこで生まれ、どこで生活をしていたのかが一向に思い出せなかった。もしやと押し寄せる不安に自分の衣服をきつく握る。言葉を紡ぐ唇が震えた。 「……わかりません」 「何?」 「……私が、どこの人間か、わかりません」 そのときの彼らの表情は、嫌というほど忘れられないものだというのに。見張りとしてついてきていた兵士さえも、息を呑む。ここまで明らかに「価値のないこと」を示されると、多少なりとも逃げ出したくなった。逃げられる瞬間など、いくらでもあった。今もそうだった。 「ふむ……」 なかで、曹操という男は淵師をじろりと見下した。 「お主の記憶が戻るまで、ここに置いておくのもまた楽しみになるやもしれぬ」 「孟徳、ふざけたことを言うな」 「ふざけておると思うか」 そう言って、夏侯惇を下がらせる。じろりと見られた彼の無神経な苛立ちを秘めた瞳が淵師の体を震え上がらせた。怖い。思わず息を呑んでしまう。そして、そんな彼女をよそに曹操は言葉を続けた。 「……お主の身は、将兵に預せよう」 「ここに、いろと?」 いつ殺されるかもわからないような土地に。 それでも曹操は淡々と言った。 「死を恐れぬものは、そこから逃げればよい」 それは、ここにいるなら命は保証するという意味にとれた。そう言われて、断る理由はない。私は死ぬのが惜しい。まして、家族の名を一人も思い出せないまま、しずかに生き絶えるなんて考えたくもなかった。 ここが新たな家なのだと、そう告げたのは新しい君主だった。 |