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司馬懿

「ふん、まともに文も書けぬのか、お前は」
「す、すみませんっ」
「……まあ良い。ゆっくり覚えていけばよかろう」

そう笑んで言う司馬懿さまの大きな手のひらが私の頭に降りてきて、嬉しさに頬がゆるんでしまう。司馬懿さま、司馬懿さまは私の恩人だ。半年前あたりに、親もなく捨てられていた私を拾ってくださった。共に馬に乗って向かわされた邸には、張春華さまと司馬師さまがいた。またもう少しで家族が増えるけれど、新しいかわいい家族も増えましたわね。と、春華さまは言っていた。私はこの家族を好きになっていた。命をかけて守ると誓ったのだ。

そして現在、司馬昭さまも新しい家族となりすでに司馬懿さまからきつい教育を受けている(本人にとってはそうらしい)。

「ええい、赤子の泣き止み方など知らん!」
「旦那様、そのようなことを昭の前へ言ってどうするのです」
「ちっ、いったいどうすれば……」
「あら、淵師。あなたも昭の様子を見に来たの? いい子ね」

手招きをされ、私は春華さまの前へ立たされる。しっかりと肩を後ろから持たれていた。ときおり見える彼女の手は、誰とも同じ形をしているのにひときわ美しく見えた。透き通る肌は滑らかで、細く華奢なのだ。
司馬懿さまに丁重に渡され、私は司馬昭さまを抱く。私よりもいくつも年下で、本来なら出会ってもいない人なのだけれど、私の弟になるのだ。やがて司馬師さまもやってくる。ほんの少し眠そうなまなこだった。

司馬昭さまは、家族全員が集まるとすっかり泣き止んでしまった。

「あら、泣き止みましたわね、旦那様」

春華さまの言葉に、司馬懿さまは嬉しそうに笑う。その声に、もう一度泣き出すのは言うまでもなかった。


「失礼します」
「あぁ、淵師か。よい、入れ」

病床に伏した司馬懿さまの介護のため、私は毎日彼の室へ足を運ぶ。今日に限っては何やら話があるようだ。年を重ねてもいまだ口だけは達者で、姿も変わっていられないようだった司馬懿さま。毎日顔合わせをしていたからか、気づかなかった。

「淵師、お前に聞きたいことがある」
「はい、なんでしょう」
「私は、今もなお司馬仲達であるか」
「……もちろんです。言葉にせずとも、春華さまも司馬師さまも、そして司馬昭さまもそう思っていられます」
「ふ、そうであるか」

司馬懿さまは微笑んだ。

「かつての強敵も早くに亡くし、以来、私は戦場へ出たところで何の価値も見出せなかったものだ」
「そう、だったのですか?」
「あぁ。私以上の才を持つ者はこの世にはいない。だが、そんな私もいずれ失せる。……残された者が才を磨かねばなるまい。そこで、淵師に伝えてほしいのだ」
「っ、はい」

「一族の名に、過去の英雄にとらわれず己の才を磨けと。いっときの対抗心などで競ってはならぬ。永遠に変わらぬ強敵と、対抗をするのだ。それが、家族であるお前に伝言を頼み、家族である息子に伝えるべきことだ。ふん、何せ私は父親だからな」

そういった司馬懿さまは、かつてより衰えた高笑いをしだす。声につられて、春華さま、続いて司馬師さまと司馬昭さま、元姫さままでやってきてしまった。まるで、あの頃のようだった。泣き出す司馬昭さまの声につられて家族全員が集まること。だとしたら、司馬懿さまは泣いていることになる。しかし、そうかもしれない。司馬懿さまは、後の残された生の少なさにどう思っているのだろうか。やがて、彼の高笑いが静まる。春華さまが、初めて見せる悔しそうなまなこで、無理に微笑んだ。

「旦那様、泣き疲れたでしょう。ゆっくり、おやすみなさいませ」



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