張遼 曹魏のあいだでも広がる争乱の匂い。おどろおどろしいほどの憎心を感じる。それを一方的に向けられているのは、私だった。先ほどまであの方、呂布殿と同じように縄につけられていたというのに、今こうして私だけが歩いているのはどういうことか。地面を踏みしめると、今まで討ち取ってきた将の悲鳴が聞こえる。空を仰ぐと、今まで想い人のために泣き、散った者たちの涙が降り注いでくる。私の体には、いつまでたっても洗いきれない汚れがあった。 これからは曹魏の、曹操殿のために武を振るい至高の武を求めるのだ。実感がわかなかった。野垂れ死にをしなかっただけ、感謝をしておかなければいけない。 「あの、張文遠殿って、あなたのことですか」 背後から私の名前を確かに呼ばれ、振り向く。 小柄な女性が一人立っている。見た目と反して、瞳はまっすぐ私へ向けていた。怖くないのだろうか。「何の御用か」というと、彼女は胸をなでおろし、対称的に安堵の表情を見せた。 「よかった……。張遼殿のこと、探しておりました」 「何ゆえ」 「あなたほどの武勇をもつお方が曹魏に来てくださったのに、おもてなしの一つもなしでは申し訳ないですしね」 「申し遅れました、私の名は淵師といいます」と、拱手する彼女は柔らかな黒髪を風になびかせた。美しい髪だ。常にあの方の傍らにいた貂蝉殿を思い出してしまった。 「たらふくご馳走を用意しております。よろしければ、こちらへ」 手招きされ、私は彼女の後ろへついていった。向けられる視線は、やがて彼女の方へも向いていた。それなのに物ともせず堂々と城内を歩む彼女の背は、華奢であるのに立派であった。見ていて誇らしくもなる。 「淵師殿、と言ったか」 「はい?」 宴席にいては空気を悪くさせるだろうと思い、退席をした私についてきた彼女へ視線を向ける。片手に盃を掲げている。 「貴殿と出会えたこと、感謝する。これから迷惑をかけると思うが、どうか頼まれてほしい」 「もちろんです。私の方こそ、よろしくお願いします」 差し出された白い手を受け取る。冷たい指先。おかしい、と思ってしまって口元を緩ませると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。 |