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久方振りに目の当たりにした文則という男は、だいぶやつれていた。きちんと整えてあった黒髪や髭には白髪が混じり、後ろ髪は適当に結い上げられている。健康的だった肌は白く濁り、彼の不健康さを漂わせる。あなたは誰。私はその言葉を飲み込み、与えられた現実の重たさに瞼を落とした。瞼の裏に焼き付いたのは、まぎれもなく暗闇ばかりだった。


私は文則という男に恋をしていた。



上官に与えられた雑事や色事に耐え、女であることへの誇りさえも失いそうになった日々を送っていた。宮内は歩くには広く、寂しいものだと淵師は口元に滲む血を拭った。こじんまりとしているもののほうが、人々の温もりを感じる。危機さえも察知できる。かつて家族と過ごした小さな家を思い出し、鼻の奥が痛んだ。どうして私はここにいるのだろう。父も母も育てていた動物もいない宮で、どうして血を拭っているのだろう。
父は曹魏の前に屈服した将の部下だった。その将は情けなくも顔に泥を塗った状態だった。父は将の部下というだけで酷い扱いを受けた。母も、家も、動物も私もそうだった。表面上では女官として扱われたが、名前も知らない上官に女というだけで性の捌け口にされるだけの道具となった。先ほどまでもそうであった。情事を終えて、口答えや憂い顔を見せれば叩かれる。この傷はその時についたものだった。
知り合いはいなかった。だから私の傷に怪しむものはいなかった。それだけではない。上官は私をよく気に入ってくれて、身なりは整えさせきらびやかな衣服をよく着せたのだ。口元についた傷など、紅か白粉で隠せるものだ。むしろ淵師は恵まれている、と他の女官に恨まれることがあった。その度に心の中で「性悪女」と毒を吐いてやった。

そんな淵師にある日転機が訪れた。それが今だった。井戸の前で頬についた血を流して、粘りが乾燥した部分の髪を強引に水にとかして梳いていた。誰かに見られないように水音はたてず、ただ屈辱と安堵に心を締め付け、もくもくと。慣れている。こんな、行為。それでも涙がこぼれてくる辺り、淵師にもまだ人情があるのだと判った。それがおかしいと思って唇を噛み締めた。もはや人形としか思われていないというのに、どうして人間としていたがるのか。不思議でたまらないのに、それこそ今ここで生きたがっている淵師自身だと体が震えるのだ。
嗚咽が漏れ、淵師ははらわたが煮え繰り返る思いで髪から手を離し、地面に生える草をちぎった。ちぎって、井戸に放り捨てた。ついでに唾も吐いてやった。これには毒が混じってるんだ。上官が嫌う淫らな女の怨念というものが。
ばちゃんと水が跳ねた。やけに鮮明に響いた。おまけに背後から「何をしている」とまで声を掛けられてしまった。声は聞く限り重々しく冷たいものだった。

「聞こえぬのか」

淵師は腰を持ち上げて、声のする方へ振り向いた。ぼさぼさに散らばった髪を手櫛で撫で、乱れた衣服をその場しのぎの範囲で直す。顔を上げてみると、そこには如何にもな男がいた。顔も知らない男だった。ただ、釣り上がった目付きは鋭く、淵師の良心か悪心かを黙らせるには十分であった。

「髪を、直しておりました」

男は淵師の身なりを見て、眉をぐっと寄せた。何があったのかを把握し、着ていた上衣を淵師にかぶせるまでには時間は要さなかった。「え……」と肩まで掛けられたことに驚く淵師。こんなことをされたことがない。今までも見つかったことは一度か二度あったが、見つけた男は淵師に対して「井戸の水を汚したな」と罵声を浴びせるばかりだった。背丈のある男の上衣は大きく、淵師の体をよく包んだ。体温も温かいのか、水に触れていた白い手を優しく守るようだった。

「感冒を召しては困る」

一目惚れだった。さらに男はあずまやへ淵師を連れると、そこで詳しい経緯を尋ねた。女であるが故に、恋した男の前で色事はうまく話せないものだ。はぐらかそうとする淵師に深くは聞こうとしない男に、さらに彼女の想いは強まった。男はただ上官の名前や身分、容姿を聞いていた。名前は判らない、と言ったが容姿とよく話している位と男の名前を言っておいた。淵師は男の薄い唇に目を奪われていた。あくまで淑女らしく演技をして。男の声は、唇は、双眸はすべてあの上官と比べて男らしく硬いものだった。柔らかさと滑りを帯びた態度は一切なく、淵師は男の質疑に答えた。

「今日含むとうぶんの執務はすべて控えよ。お前の上官には代理に報告をしておく。身なりを整え、曹司に速やかに帰るのだ」
「あの、こちらの衣服は……」

ぎゅ、と身を抱き締めるようにして男の着ていた上衣を握った。絹だった。だとすれば、かなりの位があるのではないかと淵師は無い脳を絞り出し理解をした。思わず緊張をする彼女に反して男はその感情を和らげるように優しく、

「お前の好きにすれば良い」

と困ったように言った。そうしてあずまやに残された淵師の身。引いていた紅は乱雑な接吻によりどろどろに、衣服は直したところで自分の愚かさは目立つ。こんな風に身分を与えられたのだから、仕方がないじゃない。そう言い聞かせたところで、あの人はきっと私の涙を美しく思ってくれるのだろうと、唇を噛み締めて頭を抱えた。


一週間ほど、何もしない日々が続いた。天候とはこれほどまでに麗らかなもので、心地よいものかと改めて実感する毎日だった。上官が一度曹司へ訪れたが、気の悪そうに謝ってそれ以降は寄らなくなった。本来ならそのことに疑問を抱いていたのだが、さして今更何だと、むしろ上官を蔑むようだった。淵師は悠々自適な生活を送っている。俸給も変わらないと聞いた。食えないことを覚悟していた淵師にとって、豪華なものを突然与えられたことは人生の節目か何かだと思えた。これもあの男のおかげだろうか。淵師は日々あの男への想いを深くさせる。

共に寄り添ってみたい。歩むだけでいい。言葉を交わすだけでいい。粗相をして叱られてもいい。まったくの貪欲だと同室で過ごす女性に笑われたけれど、それこそ女の幸せだと返した。男女が存在する理由など、互いの欲を満たし合うことだと淵師は思っていた。他の理由などどれだけ時間が経とうとも思い浮かぶことはなかった。あの日、あの時かけられた一言一句。それらすべてが淵師の心のしこりを取り除く薬のよう。誰もが憧れる身分違いの愛、名前も知らぬ男に身を焦がすこと、すべては悲しみに溺れてしまう。でも、と淵師は唇をなぞった。これほどまでに忘れられない男がいるのだから、報われても良かろう。

やがて一週間が過ぎた。この頃になると将も屋敷へ帰ろうと準備を始めるが、淵師は慌ただしく女官としての日々を送り出そうとした。まず同室する女性から聞いたことに従い、指定された室へ向かう。仕事始めにいきなり上官に会わなくて良かった。淵師は胸を撫で下ろし、その室の前へ立った。

「失礼します」

扉に手をかけ、返事を待つ。「入れ」と、耳に届いた。その声を聞いたとき、淵師は喉を上下に揺らした。押し開き、ゆっくりと室内を視界に取り入れていく。だんだんと、目に入る――殺風景な室だ。そしてその室の真ん中に立つのは、あの時の男だった。

「そこへ座れ」

うながされ、淵師はためらいながら椅子へ腰掛けた。入室してからほとんど相手の顔を見れずにいる。どうして私をこちらへ呼んだのだろう。ただそのことだけが疑問であり、あれほど欲していた声が耳に残っていることで体が火照るばかりだった。男は淵師と向かい合うように卓を挟み座る。どす、と勇ましい音が聞こえて妙な歯痒さを感じ、踵を浮かせた。

「先日の件のことだが、殿に説明をし、お前の待遇についてを配慮することとした」
「配慮、でありますか」

体が自然と前のめりになり、食い入るように目と爪に力が入る。

「ああ。――淵師を本日付けで私配属の女中とする」

男は真摯な態度で眼差しを送った。私を貴方配属の女中にするだなんてと夢心地気分で何度も同じ言葉を唱えた。不思議と喜びどころか何の感情も起こらず、がたがたと震える指先に心底から名前を呼ばれた感動に湧く。
ずいぶんと素っ気ない態度と思われだろうか。男は「不満ならば言え」と先ほどよりも低くして唸った。

「いえ、そのようなわけがありません。私は嬉しくてたまらないのです」

いつぞやに生き抜いた過去に瞼を落とす。生きていたときこそ無心であったが、思い返すとなんて地獄だったものか。私という女は女としての機能しか褒められず、容姿も声も飾られたはいいがすべて主に剥がされてしまっていた。いっそ男ならばと思ったが、戦場に出て戟を振りかざす汗臭い姿など思い浮かべられなかった。

男は安心しきった声で「そうか」と、籍の変更を忘れるなと言いつけた。頷き、さっそく女中としての仕事を始めようと男に告げた。

「よろしくお願いいたします、……ええと」
「于禁、字は文則と言う」
「では、于禁さまと」

無言なためこれでいいのかと淵師は不安になったが、于将軍よりは良いだろうと納得をした。入室して以来、置物のように動かない于禁に淵師は深々と頭を下げる。

「再度申し上げます。本日より、よろしくお願いいたします。于禁さま」

私は自由だ!
淵師は心の奥底から湧き上がる勝利に、目尻を熱くさせた。頭上から「うむ」と降りかかってきて、ゆるゆると顔を上げる。優しい眼差しが注がれていた。于禁さまという主が私を救ってくださったと淵師はどこにいるのかも分からない家族へ報告をした。熱を持ち始める頬元は熟れたように赤くなったのが判った。以前のあの人ならば勘違いをして事に走ろうとしたのだが、彼は違う。淵師に見られながら于禁は立ち上がり、すでに用意をしていた茶を目の前に置く。

「これを飲めば、厳に仕事を始めよ。私の元での気の緩みは許さぬ」

それは褒美に見えた。過去の私を認め新しくなることを許してくれている。そう淵師にはとれた。嬉しさのあまり一気に飲んでしまい、咳き込んでしまう。「大丈夫か」と心配をする于禁へ謝り、この茶に対して「何物よりも美味しゅうございました」と微笑んでみせた。私はこの人を命に代えても守り尽くす。淵師の固い決心はけっして于禁に伝えることはなかったが、後悔はしなかった。梅の花が庭に満開に咲く、春の季節のことだった。



「すまなかった」

かつての淵師のように結び目から髪がはみ出る于禁を、どう接していいかも判らず見つめ返した。もはや謝ってきた理由さえも判っていない。樊城での戦のあと、于禁と出会うことを禁じられていた淵師だった。配偶者となっているにもかかわらず、このような対応である。血縁者である淵師の首が繋がっていることこそ奇跡だと思え、そう、かつての上官は馬鹿にするように言った。淵師は屈辱に噛み締めて流れるどんよりとした空気を吸い込んで耐えた。
さて、于禁が謝った理由を尋ねた。どうして謝られるのです、と。

「私は淵師に迷惑をかけた。少し痩せたのではないか。不健康ではあるまいな」
「……何です、そのご冗談は」
「冗談ではない。心底から淵師の安否ばかりを考えていたのだ」

そうして頬を撫でる于禁の指先はささくれ立っており、刺すような痛みが襲った。それさえも快感になった。はあ、と熱い息を吐いて于禁の乾いた唇を待つ。しかし、降り注ぐことはなかった。淵師にとっては配偶者なのだから同じ罰を于禁と分かち合いたかったのだが、叶うことはないようだ。彼は考えが違っていたのだ。すべての行いを淵師重視にする。互いに乗り越えようとは思わない。ある意味淵師にとっては女と見られている喜びであったが、反面それこそ役に立たない守られるだけの女でしかないと複雑だった。どうして私の健康を心配するの、貴方はそれほどまでに血色が変わったというのに。淵師は于禁の胸に飛び込んで、心音に耳を澄ました。


「――淵師」

喉の奥から振り絞るような声にはっとなる。どうやら気を失っていたようだと自分の状態をみて思う。寝台に放り投げられた素肌には玉の汗が浮いていた。そうか、先ほどまで……。淵師は心身共に満たされた喜びに頬を緩め、傍らで立派な胸板をさらけだす于禁に寄り添った。落ち着いた心音が聴こえる。終えてから息が整うまでの間、ずっと気を失っていたのか。頭を少しあげると隙間に于禁の腕が忍び、枕にして睡魔と余韻に頭を白くさせた。

「すまない、無事であったか……」

遠くからだんだんと耳に反響する質問に視線を彷徨わせて、どうにも無事じゃない振りをすると于禁は空いた手で淵師の髪に指を通した。くすぐったさに身をよじりくすくすと笑う。

「その分だと、大事ないな」

柔らかな声に淵師は幸せだと思った。于禁が唯一気を緩める瞬間だ――私といるときこそ、文則さまは幸せを感じて抱いてくれる。愛ある行為ほど心に余裕を与えるものはない。富も権力も同様であるが、孤独には勝てない――と淵師は思った。経験談であると苦笑し、于禁の胸に唇を寄せた。強張る様子の于禁にいとおしい気持ちを募らせながら瞼を落とした。どうしてこんなに心地よいのだろう。いつしか自分が与えられていた苦痛以上の長さで幸福を得ている錯覚に悩まされることがある。幸福よりも苦痛の方が目立つのだが、淵師には今の日々を幸福としか思えておらず、もはや過去の記憶さえ輝いて見えた。――于禁と出会うことが必然であり、あの過去はその瞬間までの道程だったのだと。道は真っ直ぐ敷かれていたのだと。魅惑的な妄想に酔い痴れるとき、身体が浮遊する感覚が淵師は好きだ。肉体は于禁に包まれているため、現実逃避をしない程度の瞬間。
于禁はけっして淵師が眠るまでは寝ようとしない。情事後に背を向けて眠ることもしない。優しくて素敵な人ね、と何年も喋っていない母ならそう言うだろうと想像し、くすくすと笑った。突拍子もない笑いに驚いた于禁は怪しむことなく淵師の心中を悟って黙った。ああ、幸福だ、と淵師は思う。
夜はまだ明ける気配はない。外から漂う夏草の匂いに混じって汗の匂いが淵師の鼻腔を刺激するだけだった。


「――淵師!」

一言で困る、と言いたげな顔をして于禁は淵師を剥がした。それこそ動揺する淵師は、心が痛む原因を探った。どうして。思わず震える膝に情けないなと苦笑した。否定。否定をされることは時に女である淵師に被害者意識を抱かせる。あなたが好きなのに触れられない。触れられたと思えば引かれた。あなたは私が嫌いなのではないか。一連の想いをとにかく受け止め、淵師は顔を上げて于禁を見た。美しかった。それでも尚、好きだった。

「敗戦した将は今ごろ名前も知らない女を道具のように抱いて、肉と酒を浴びて、人間とは掛け離れた獣となっていましょう」
「何を、」

淵師は二つの男を知る。いや、二つしか知らないというべきか。かつての上官のような欲に溺れる男――淵師の知る限り、そういう男は多いと思う。もう一つは于禁だ。于禁は男であるが男でないような気がしていた。生真面目で厳しく、淵師以外の女とけっして戯れようともせず、健康管理や部下への対応もしっかりとしている。そういう種類の人間と淵師は出会ったことがないため、どうも于禁の行動一つひとつに惹かれてしまった。

「あなたもそうなさる男でしたら、どれほど私の心が救われたことでしょう」

心底から言葉を絞った。醜く救いようのない男なら諦めきれるのに。私を縛るのは文則さまの当たり前の行動なのだ、と淵師は被害者を装った。対して于禁は言葉をなくし、かつては共に過ごしていた執務室にある書棚や机を見て気持ちを落ち着かせた。しかし、それは逆効果だった。

「……単刀直入に問おう。私は、今後どうすれば良い」

淵師の夫として、だ。于禁はそれは言わなかったが、淵師の脳内では「淵師の夫としてだ」という言葉が生まれていた。

「 どうして尋ねられるのですか」

と、淵師は尋ねる。

「私のことをまた、重視して……」

守られてばかりは嫌だったけれど、私は文則さまの力にも心の支えにもなれない。私の存在が文則さまを苦しめ、安心させ、生きることを諦めさせないのだ。その逆も然り。互いにいなくなってしまえばいいのに、そうはいかない。

だって、と淵師は涙を落とした。

「私は文則さまのことをこんなにも愛しているのに」

少なからず于禁に残された未来が輝かしいものではないと、淵師は気付いていた。処刑されることはないが、曹丕の誇りであり強敵である父、曹操を落胆させた于禁が帰国したのだ。何もせず職務に戻らせることなど考えられない。事実、何か動きがあると于禁の妻の淵師は情報を集めていた。
いとおしい、ということは重たい。言葉にこそ重りが入っている。于禁をいとおしいと思うたびに淵師は堕落していく。もはや愛情が本当にあるのかさえわかっていない。癖なのかもしれない。于禁は淵師を愛しているし、いとおしいと感じては淵師の涙を拭えない指を睨むのだ。

やがて、于禁を呼びに来た兵士が淵師の涙をはた、と止めさせた。二人の会話を、今後あるかもしれない共に寄り添う未来を掻き消すように、割って入ってきた。淵師は腫れぼったい感覚に指を震わせ、于禁を見た。もう一生この人には会えないのだろう。先ほどまであんなに泣いていたというのに涙は溢れてこなかった。

「では、淵師」
「文則さま」

文則さま。この呼び方はまだ言える。笑顔でも、泣き顔でも、見せたことはないけれど怒った顔でも。文則さま。しっくりと来る呼び方。あずまやまで、色の違う床の石を踏んでいったときの達成感を思い出す。文則さま。ぶんそくさま。

「……お元気で、文則さま」

皮肉などではなく、本心から妻として旦那の健康を労った。于禁は微笑み、眉のしわを緩めて頷いた。

「淵師の幸福を祈っていよう。この先再会することを誓って、今まで私の妻であり部下でいたこと、感謝する」

後ろ髪を引かれる思いで、出て行く于禁を見続けていた。馬鹿ね。去った于禁の後ろ姿に笑った。
文則さまがいなくなった今、私に幸福は一生訪れない。同様にあの人にも。今さら感謝をされたところで、接吻する唇も抱き締める腕も誰も持たせてくれない。文則さまがいない私は抜け殻だ。邪魔なのだ。形だけ残して、意志をなくしてしまう。文則さま。ああ、やっぱり。文則さまという言葉に疑問を掲げる。どうも、この先会えないことに実感が湧かなかった。彼は仕事に赴き、私がお茶を準備している間に帰ってきて「茶を頼む」と言うのだ。そうだ、そういえば文則さまが飲むと思って手に入れた茶葉はどこにいったのだろう。棚を開けて、さまざまな種類の茶葉を眺める。中にあったのは、共に飲もうと用意していた茶葉が乾燥しきった跡だった。


于禁が亡くなったと知らされたのは、淵師が命を絶ってから次の日のことであった。同じ病であった。幸か不幸か淵師と于禁のことは特に話題にはならなかった。淵師に知り合いがほとんどいなかったことに加え、曹丕が彼らの話題を出すことを禁じた。曹丕にとって、あの二人を放っておくことこそ望みだと考えた。

淵師が新しく手に入れた干し梅の茶葉を用意しているとき、扉の開く音がして振り返った。そこには険しい顔つきの于禁が立っていた。あら、と内心焦る淵師は「また部下の粗相ですか?」と何事もないように笑んで支度を続ける。「うむ」と于禁は続け、どしんと椅子に腰掛けた。

「どうぞ」
「ああ」

于禁はあまり礼を言う男ではない。
茶を飲む姿を見て微笑み――そうだ、飲む前に一度浮いた茶葉を見るのも癖なのだ、と目尻を下げた。

「淵師」
「はい?」

それともう一つ。

「ただいま」

淵師は一度呆気にとられて目と口を開いたが、急いでおかしそうに笑い、「おかえりなさい」と言った。本当に分からないお人。この人がいとおしいと思い、淵師は自分の分も茶を用意し、隣に腰掛けて于禁としずかな時間を過ごした。梅の花と梅茶の混ざった匂い――それと男の匂いが混ざっている匂いに瞼を落とす。こんな日々が毎日続きますように。散った梅の花が、于禁のお茶に入る。花弁はだいぶしおれていた。


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