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「これは淵師殿、ずいぶんと幸福に満ちたお顔で」

「どうかされたんです?」と、それはもう興味なさげに、法正殿は尋ねてきた。どうして聞いたんですかとこちらが問いたくなるくらいに素っ気ない。
ただ答えをごまかすのも怖いので、先ほどまであったことを言ってみる。

「星彩たちと話してたんです」
「ほう、さしずめ恋い慕う男のこととかですかね」
「……どこで聞いたんですか」
「なに、勘ですよ」

しれっと答える法正殿を睨むのをこらえ、微笑む。口角が引きつるのがわかった。笑わないと、せめて、彼の前では。銀屏が「法正殿に恩をあとで返すの」とか言ってたから、その時会話の内容を教えたのだろうか。だとしたら行動が早すぎる、この人。世間話も含めて星彩たちと話していたこともどこで知ったのやら。
何はともあれこの状況はまずい。私自身、前に法正殿に恩を作ってしまったのだ。忘れててほしいと思ったことはもちろんある。

「で、だ」
「はい」

法正殿が会話をするのに耳を澄ませ、息を呑む。あづまやの下、ちょうど私が座る席は宮から見て木陰で隠されている。

「遠乗りをする相手がいると聞いたんですが」
「……」

それは、私だけが慕う相手も兄弟もいないなか、適当に答えた嘘だった。遠乗りなんて一人で行くか、勝負事に負けて馬岱殿の代わりに馬超殿と行くかだ。……と、そこである意味嘘ではないことに気付く。そうだ、けっして恋い慕うわけではないけれど、馬超殿とよく遠乗りをする。

「馬超殿、ですけど」

必死に馬超殿にごめんなさいと心の中で謝り、法正殿の表情を伺う。相変わらずの皮肉めいた笑顔のままだった。「あの」と口を開くも、何も返ってこない。乾いた風の吹き荒ぶ音が、静けさを象徴させるだけだ。もう一度「あのー……」と間延びに、まるで悪気もないように法正殿の表情を伺った。

「……馬超殿、ねぇ」
「え?」
「いえ、何も。ただ少し、意外でして」

「きっと、独り身かと思ってましたので」そう言って、法正殿は私の頬にかかる髪を耳にかけた。にゅ、と伸びるたくましい腕に体がこわばる。私の心にはなんとも言えない感情ばかり湧き上がっていた。まるで恋愛沙汰とは無縁と思われていた悔しさやら、突然髪に触れられた驚き、それと先ほどから見せつけてくる悲しそうな微笑への感情。胸がきつく締め付けられ、けっして目を離すことのできない表情をするのだ。

「淵師殿は、俺のことを恐れているようで」
「そんなこと、ないです」
「ここは生憎の木陰で良かったでしょう。馬超殿に見られることもない」

大きな手のひらが私の髪束を横にかき分け、空いた首元があらわになる。ひんやりとした風が、まるでそこにしか居場所のないように押し寄せてくる。

「あの、何を……」
「拒絶をしない」
「え?」

熱い息が首元にかかり、とっさに目を閉じた。行き場のない腕がさまよい、彼の背中に辿り着いた。「やめて」と言うと、滑稽に笑う彼の声音が耳に届く。反響さえもする。

「なに、これは恩返しだと思ってくだされば……。馬超殿には多少悪いことを、」
「どうして馬超殿に悪いと思うんですか?」

彼のこの行為と同じように疑問に思っていたこと。先ほどから馬超殿の名前ばかり出てくる。もしや、と理由は安易に想像がつくけれど、一応聞いておかなければ気が済まない。
動揺を一瞬だけ見せた法正殿が私からそっと離れる。首元は相変わらず寒いけれど、服の下の体はすっかり熱い。羞恥がどこにも行ってくれないのだ。彼がした行為が、すこしだけ美化されて何度もよみがえるおかげで。
私は息を整え、口を開いた。

「馬超殿とは、遠乗りをしただけです。ちょっとした罰で」
「……」

とくにこれと言った返事はなかった。「法正殿」そう彼の肩に触れようとすると、「何も」と、手を突き出される。驚いて目を見開いてしまった。

「何も、言うな」

あげく罰が悪そうに目を逸らし、黙り込んでしまうものだから。そんな……、と幻滅するわけでもなく、初めて聞いた口調に鼓動が早くなる。ときどき徐庶殿にそう語るのを見た気がする。まさか、自分にまでそのように言われるとは思ってもいなかった。

「……もう、俺とあなたとの間の貸し借りはなしです。ただ、このことは他言無用でお願いしますよ」
「はぁ、そうなんですか」

散々、人の心も髪も乱しておいて他言無用とは。怒り……はなく、それよりも、私は法正殿の新たな一面に釘付けであった。ほんの少し頬が赤い気もする。互いの。

「……えっと、じゃあ解散しますか?」
「そうですね、また、次の機会に」
「また、私の髪と服を乱すんですね」
「……淵師殿」
「冗談です」

他言無用と言われたけれど、すこし言いたくなってきた。愉快で、控えめに笑いながら遠くへ歩き出す法正殿を見つめる。弱みを握った余裕からか、全然怖くない。それより馬超殿に災いが降りかかってでもないだろうか。法正殿は夜な夜な人を恨んでいそうだ。劉備殿には幸福を願いつつも。

と、思った矢先、立ち上がった瞬間足をくじいてしまった。予想外の出来事に体が前のめりになっていく。つい、この体を支えてくれるのは法正殿がいいと思ってしまった。今度星彩たちと喋るとき、言ってみよう。

「危ない人だ、あなたは」

幻聴まで聞こえるようになったと。

「俺の弱み、握らせるままは嫌なんでね。ここが木陰に隠れてて本当に感謝してますよ」

そのまま柔らかい笑みが降りかかってくるのだ。私の髪束を掴んで、甘い時間が訪れようとも。ただ私は必死に幻覚だと願って。


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