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「本当に、曹操殿の元を離れてしまうのですね」

私の言葉に、眼前にいる陳宮殿は「えぇ」と頷く。やはり真実なのだと実感をして、わずかな心の痛みに視線を落とすしかできない。彼が曹操殿の元を離れるということ。己の才を確かに生かせる御仁を見つけたらしい。このことは彼と私のみの秘密であり、ゆえに人が立ち寄らない場所で喋らなくてはいけないことだ。
場所は宮からだいぶ離れた、街のさらに奥にある井戸の前。季節は肌寒い頃であり、空気が乾いている。その空気を吸うたびに、私の鼻は痛みと共に刺激される。

「曹操殿、から離れても元気でいらしてくださいね」
「それはもちろんですとも。淵師殿こそ、ご自愛くだされ」
「はい、気を付けます」

と、言って微笑んだ。今すぐここで叫ぶか、明日にでも曹操殿に彼の離反を告げてしまえばきっと戻ってくるのだろうか。いや、それはありえないのだろう。彼の瞳が輝いているのだ。そのことが悔しくてたまらない。同じ君主を持ち、共に戦い抜いてきた日々を否定されたようで。唇を噛み締め、私は陳宮殿を見つめる。

「……では、陳宮殿」と、背を向けて歩き出そうとする。私は宮へと戻り、彼はどこか見知らぬ土地へと行くのだった。

「待たれよ、淵師殿」
「何を?」

これ以上言葉を交わす必要はないと思い込ませたというに。衣装さえも黒に染めた陳宮殿は、すこし眉根を下げて私に問いただした。

「共に、共に来てはくださらぬか」
「……私と?」
「はい。淵師殿となら、さらに輝かしく、平穏な世を作れましょうぞ」

そう言った陳宮殿は、無理に口角を上げ笑っていた。殺されると思っているのか、それともーー。もう一つの答えはないと否定をし、さらなる言葉を待つ。どうか、私が幻滅するような言葉を言ってくれますように。でも、多分、陳宮殿は私が嬉しくなることしか言わないのだ。今さらになって、これまでの集大成でもある優しい言葉を言ってくれるのだ。

「これからの人生とは、己の物でしかないのです。たとえ私でも、曹操殿のもとへおられようとも、乱世の常である過酷なもの。ただ傍らに、傍らに誰が立つのかが変わるだけです」

それはある意味の告白のようだと、私は肩を竦ませる。

「……あなたについていけば、陳宮殿が傍にいると申したいのですね」
「左様」

自信満々、しかし彼の喉が動くのを見逃すことはなかった。陳宮殿は緊張をしている。そして、自惚れる私がいる。けれど、私の答えは決まっていた。陳宮殿でも、曹操殿でも変えられない答え。決心だった。私は陳宮殿へ手を差し出すも、すぐに宙を切って手をあげた。

「お気持ちはとても嬉しい。そして、傍らにいるのはあなたが何よりも良いと思ってます。ですが、私はやはり曹操殿に仕えたと決めたのです。あの方のもとで、天下を見届けます」
「……あぁ、そう申されるか」

そのとき、陳宮殿は静かにうつむいた。罪悪感がどっと湧き上がった。敵になるのだと、今さらになって脳が身体中へ伝えていくのだ。指先が震える。うつむいたおかげで揺れる彼の帽子の飾りしか見ることができない。

「陳公台、一生の不覚でしょうな」

陳宮殿はしずかに顔を上げた。

「あなたとは、あなたとは一度も刃を交えることなどしたくありませんでした。ゆえにお誘いをしたのですが……」と、一度口元をきつく結ぶ。

「いえ、私は諦めませぬ。これまでも、これからもあなたと共に駆けることができるよう、十分に待ちましょうぞ」

言い切った陳宮殿の言葉に、私は唇が乾燥をしきっていた。心が揺さぶられていた。「では」と残した陳宮殿は立ち去る。私は待って、と言うこともできずその場で立ち尽くした。追いかけて謝ることなど、私にはできない。彼が居場所を見つけたように、私には曹操殿に仕える以上の居場所がないのだ。

「陳宮殿……」

言葉は音もなく消えていく。やがて彼の背中まで見えなくなると、私は祈りをこめて彼のいた場所へ背を向けた。どうか、この先戦場では出会わないよう。また、どちらが天下をとっても互いに生き残ることができるよう。
井戸の水に触れると、表面は凍っていた。もう少しで雪でも降るのだろうか。また雪が降った日に、彼と会いたいものだと私は笑みを浮かべて、涙をひとつ落とした。この日が、私にとっての一生の不覚になるのだと後になって分かるのだった。


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