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「あの、」と口を開くも、すぐに閉じる。眼前に迫る陸遜殿は、私のまえでしゃがみこんでしまった。何をするのかと視線を下へとよこせば、なにやら彼は私の靴紐を直しているようだ。赤に近い茶の色をした髪が揺れている。

「引っ掛けたら危ないですからね」と、結び直し終えた彼は、立ち上がり、微笑む。私の靴を彼に触れられたというだけで今すぐこの靴を家宝にしたいというのに、人を殺めてしまうような微笑のせいで、すっかりと忘れてしまった。陸遜殿といるだけで、ぽん、と思考が吹っ飛んでしまうのだ。

「どうされましたか? 顔が赤いですけれど……」

そう言って、陸遜殿は私の前髪をかき分け、そのまま手のひらを額へとあてる。「うーん」と考えるさまは、策を練るときよりあどけない。いや、そんなことより。あまりにも近い距離に私は目をきつく瞑る。考え込んでいるからか、小さく聞こえたうめき声に、私の胸は弾けた気がした。銅板を思い切り叩いたように、激しく、やがて空気に溶け込んでしまう。

「大丈夫、ですね。あの、体調が優れないのでしたら、部屋へ運びますが……どうでしょう」
「いっ、いやっ、あの、大丈夫です」
ようやく会話を交わしたというのに、このざまだ。「おはよう」と言われて「こんにちわ」と返す方がよほど素晴らしい会話に聞こえる。彼の瞳へは視線を向けないよう目を逸らしながら、私は早くどこかへ行ってくれないかと神様に頼み込んだ。本音を言えば、このままどこにも行かないでほしい。しかし、まずは私の呼吸の確保だ。

「いえ、やはり部屋へ向かいましょう。肩を貸してください」
「いいい、いや、本当に大丈夫なんです」

胸の前で必死に振る手を陸遜殿に掴まれた。やけに今日の彼はおかしい気がする。強引な行為に、視線で動揺を訴えかけると、彼は「すみません」と小さな声で謝った。同時に、手が離される。

「あの、陸遜殿の方こそお疲れなのでは」
「いえ、そういうわけでは……。ですが、心配していただき、ありがとうございます」

陸遜殿は何度か視線を揺らしながら、私の手を優しく包み込んだ。触れられた指先に熱を持ち始める。頬まで熱くなってしまうけれど、それは彼も同じのようだった。

「私は、淵師殿の熱い眼差しのせいで、調子に乗ってしまったようです」
「え、それってどういうことですか?」
「お言葉ですが、私が気付いていないと思ってましたか」

「あなたのご好意に」と付け足す陸遜殿は、ほんのりと頬を染め、微笑んだ。挑戦的な眼差しは私だけをとらえ、この場所に、二人だけの空間を作り出してしまう。私は何度か言葉に詰まり、結局俯いてしまった。
早く何か言わなければ、と急かすたびに、彼の手のひらからの温もりに思考が溶かされてしまう。

「淵師殿をもてあそんだような行為は謝ります。しかし、私はこの関係を終わらせたかった」
「陸遜殿……」
「こういうものは、男に恰好をつけさせてくださいね」

そう言うと、陸遜殿は私の頬を撫で、何度か
髪に指を通したら、両の手できつく私の手を握った。軍師、というだけでなく一の武将として戦場へ赴く彼の手はたくましいものだ。かすり傷も、戦いから生き抜いた功績と言うべきか。私はその傷を一つひとつなぞっていると、ふと、陸遜殿が口を開いた。

「私と、これ以上の関係を築いてくれませんか」
「あ……あの、陸遜殿……」
「嫌、とは言わないでほしい……です」

と、陸遜殿はわずかに俯き、上目遣いでこちらを見てくる。瞬間、私の鼓動は更なる高鳴りをあげて、とくとくと身体中に刻んできた。そうやって幼さの残る顔をうまく使うのは、彼の真面目さの裏にある黒さからか、はたまた自然としている行為か。後者だとしたら私は今すぐ逃げた方がいいのかもしれない。それなのに、私はたまらなく嬉しくなったのだ。

「嫌、な、わけないじゃないですか……」
「ほ、本当ですか!」
「……私の視線に気付いていたくせに」
「それはそれです。あぁ、とても嬉しいです、淵師殿!」

陸遜殿は私の体を抱きしめると、そのまま肩口に顔をうずめてくる。すん、と匂いを嗅がれた気がして、一気に羞恥がこみ上げてきた。他の人より若いからこそ堂々と行われる大胆な行動に、血の気が引いてしまう。呂蒙殿や孫権殿にはできないと思う(凌統殿や甘寧殿はわからないけれど)。

「これで、淵師殿の部屋へ赴く理由といりませんね」

……と、聞こえたものの、私は聞かなかったことにしておいた。しかし、彼は私のそんな意図も汲まず、髪を一房すくうと「あなたをこれほどまで近くに見ることができるだなんて、夢みたいです」などと、それこそ夢のような言葉を放ち、微笑むのだった。同時に弾け飛んだ私の思考と、薄れゆく意識。今度こそ、彼に部屋へと連れて行かれる理由ができてしまったようだ。起きたら、陸遜殿が傍らにいるのだろう。それはなんて夢だ、と思ってしまった自分は、かなり彼に毒されたようだ。



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