リボン結びの心臓
リボン結びの心臓
その日はやけに雨が降る日でした。
わたしは傘を持たずに、曇り空の下を歩いていたところ、なんと大雨に降られてしまいました。大慌てで、ばちゃばちゃと水が跳ねる音を耳にしながら、ただひたすら、雨宿りができる場所を探していました。もちろん学校帰りですから、何も無い道を無駄に走っていたようなものです。記憶を張り巡らしたところで、どこにも雨宿りのできる場所などないのですから。しかし、ふと、幸か不幸か、わたしは人一人いないようなバス停を見つけたのです。
こんなところにバス停なんてあったかな……? と、わたしはもちろん首を傾げました。そのバス停は、記憶の片隅にも残っていないのです。わたしは日頃から無心で登下校を繰り返していましたが、さすがに、覚えていてもいいはずです。すこし、不気味に思えました。
しかし、雨宿りできるのなら、わたしは手段を選ばないつもりでした。湿気のせいか滑(ぬめ)りを帯びたベンチに一人で座り、髪に、シャツに、スカートまで絞ります。じゅ、と溢れ出る水に、火照る頬。夏の雨の日に、一人で長い時間走っていたせいか、疲れてしまっていたのです。
いまだざあざあと降りしきる大粒の雨。地面には、吸い込みきれずにたくさんの水溜りができていました。それでも、これでもかと雨は地面を叩きつけます。
わたしは携帯を開きました。母に迎えに来てもらえないかと連絡をしようとしたのです。それは叶いませんでした。何故なら、電源が切れていたからです。充電はもちろん満タンでした。それなのに、どうしてでしょう、電源が一向につきません。
わたしは諦めると、ため息を落とし、ぼんやりと空を眺めました。
眺めましたところ、刹那、わたしの前に大きな影が現れたのです。とっさに顔を上げ、影の主を辿ります。
なんと、そこにはとても晴れやかな笑みを浮かべる好青年がいるではありませんか。いつ来たのかと疑問に思い、わたしは口を開こうとします。しかし、声を出すことができません。恐怖でしょうか、それとも青年の魔法でしょうか。わたしがただ口を開閉している姿を、青年は見つめています。不気味なぐらいの、あどけない笑みを浮かべて。
「淵師さん、風邪をひかれてしまいますよ」
「……ぁ、あ」
「おや、声が出ませんか? 大丈夫、私は怪しい者ではありません。あなたと同じ学年の、陸伯言と言います。どうか、お見知りおきを」
「……陸、遜くん?」
わたしは、彼の言う名前に聞き覚えがありました。直接姿は見たことがありませんが、よく名前を聞いていたのです。才色兼備で、容姿に性格までも完璧な、学園の王子様。わたしの友達にも、何人か彼が好きだったと聞きます。
さて、喋られるようになったわたしは、すぐに陸遜くんと打ち解けることができました。陸遜くんの好きなことや、大好きな本に映画、音楽の趣味がわたしと、これでもかと言うくらいに合ったのです。ここまで楽しく話せる人ならば、もっと話しておきたかったと思いました。陸遜くんはわたしの悩みも聞いてくれました。
「これは、あなたと私……、二人だけの秘密ですね」と、優しく囁いてくれます。その声音が、わたしが普段から求めるものと同じだったため、つい何でも言ってしまいます。
きっと、雨がやまなかったこともあるでしょう。すべて聞こえるわけではないから話してしまおう、そんな思いで、わたしは話し続けました。まるで彼に心酔するかのようでした。まだ、気付いていなかったのです。いつもは一通りの多い帰り道に、誰も通らなかったことを。田舎でもないのに、一時間以上経ってもバスが来ないことを。
「くしゅっ」と、わたしはくしゃみをしました。
「あぁ、大丈夫ですか? 冷えてしまったのですね……。そうだ、これ、羽織っていてください。私は平気です、ほら」
陸遜くんは、有無を言わさず強引にわたしにジャケットを羽織らせます。それでも、不思議と嫌ではありませんでした。わたしは、ほんのりと恋の気配を感じていたのです。ジャケットは、わたしを包むと、少しずつ暖かくなってきました。彼のぬくもりを、匂いを、間近に感じられた気がしました。
ふと、陸遜くんのポケットから固いものが当たっていると思い、わたしはそれに触れました。銀紙に包まれた、二つのチョコレートがあります。赤の銀紙に、もう一つはまばらに赤の模様が描かれる銀紙。わたしは、そのお洒落なデザインにすっかり目を奪われてしまいました。
「一つ、どうぞ。頂き物ですが……」
「でも、悪いよ」
「いいのです、あなたに食べてもらいたいから」
不敵な微笑を浮かべ、彼は早速銀紙を剥いてくれました。細い指先が、ぺり、と剥がし、見えてくる茶色の固体物。わたしはそれを摘まむと、一口でぺろりと平らげました。
口内で広がる甘みに、わたしは目を細めます。そんなわたしの表情に、彼も微笑みました。今までで一番おいしく感じたのは、彼から貰ったからでしょうか。陸遜くんは、気付けばやんでいる雨を見て、一瞬淋しそうに眉を下げ、そして振り向き、わたしに一言、「ありがとう」といいました。わたしも、「ありがとう」と言います。しかし、彼の言葉は違うものでした。
「あなたをいつまでも愛しています、淵師さん。だから、あなたにチョコを貰えて、私はとても嬉しかったのです」と、陸遜くんは目を潤ませて言いました。
「何を言ってるのか、わからないよ」
「それなのに、あぁ、私ってば、なんて馬鹿なのでしょう。お願いです、私はこのバス停の近くにいます。淵師さん、あなたにはどうか――」
そうして、陸遜くんは風が強く吹くと同時に、目を閉じた隙に消えていました。
先ほどまで見ていたのは、一体誰だったのでしょうか。そして、どうしてわたしはバス停ではなく、公園のベンチにいるのでしょう。手に握られた赤のまばら模様のある銀紙。それは確か――わたしがあげた、無地の銀紙だったはずでした。
▽
わたしは後日、目を覚ますと、真っ先にテレビをつけました。机に散らばった、彼と同じ好みだったDVDを棚に戻しながら。目に映るのは、わたしが昨日いた公園から見つかった青年の衣服と、赤の銀紙、そして、わたしと二人で映る写真。
そのとき、「ありがとう」と聞こえた気がしました。わたしがチョコをあげたとき、彼が言っていた「ありがとう」と同じ声でした。頬に赤みをさして、心底嬉しそうに喜ぶ彼の笑顔。わたしは、胸が強く締め付けられました。夏の雨の日に貸してもらった冬用ジャケットも、季節はずれのバレンタインチョコも、すべてわたしは覚えていました。
わたしは、涙を落とし、「ありがとう」と言います。その涙は雨のように止まることなく、彼の写真の上に水溜りを、一つ、二つと作っていきました。