チョコレート | ナノ

ハニー・ハニー・ハニー

 ハニー・ハニー・ハニー

 納期の近い仕事を終えようと私は必死に指を動かす。
 かたかたかたかた、たーん、と、勢いよくエンターキーを押したら、横にいる上司の鍾会さんが「うるさいっ」とご丁寧に文句を言ってきた。そんな文句は慣れっこだ。私は何度も同じ動作を繰り返し、今日は徹夜だと念を押しながら仕事を続けた。

 残業手当に期待をしながら、既に時刻は11時過ぎ。終電ももう発していったかもしれない。このままでは、久々の漫喫かホテルに泊まるしかないなと思いながら、ため息を落とした。社には人の気配がしない。確実にオフィスには私しかいないし、テレビもないため流れる音楽は何もなかった。

 そういえば、最近テレビで女性が仕事をしていたら足を引っ張られる動画を見た気がする。私はとっさに足を引っ込め、椅子の上に三角座りをしながらデスクトップに向かった。がさごそと鞄を漁り、常に常備しているチョコを取り出す。切り目から中身を取り出し、八つ入りのチョコを一つ摘まんだ(これは運よくバナナ味だ)。
 いざ意識をしだすと、怖くなってくるものだ。そう、こんなときに扉が開いたりでもすれば――と、思った瞬間、きぃ、と音をたてて扉が開いた。

「ひっ……」
「おい、まだ残って」
「きゃー!!」

 叫び、机の下に隠れる。そのとき落ちたチョコレートが、ばらばらと音を立てて散らばった。もったいない、とは思わなかった。なぜなら、今はこの状況をどうにかしないといけないからだ。椅子を静かに体のほうへ引き、机の下からこっそりと扉の方を見る。

「あれ」
「淵師、出てこい!」

 なんと、扉を開けてやってきたのは幽霊でもなく鍾会さんだった。勤務外の時間だからか、白い爽やかなシャツのボタンは二つ開けて、ネクタイも緩めている。冷房はしっかり効いているのに、そこまで暑いだろうか。じんわりと首元に汗が滲んでいた。怪訝そうに顔を歪め、こちらを見てくる。どうやらばれているようだ。

 渋々顔を出すと、床を這って机の下から出た。なんて情けない姿だろう。司馬一家の誰か一人にでも見られれば赤っ恥だ(特に次男は危険。その隣にいる賈充さんは更に)。
 鍾会さんは、フン、と鼻高々に私を見下げると、意外にも手を差し出してくれた。

「情けない部下を持つ私の身も少しは案じるんだな」
「はぁ、すみません」

 小言を一つくらうもムカつくことはない。
 力強く体を引っ張られると、私はストッキングについた埃を払った。

「ありがとうございます」
「別に」

 この返事にももう慣れっこなため、ムカつかなかった。
 私はもう一度仕事をしようと、椅子に腰掛ける。そのとき、靴の下で何かを潰したような感触がした。

「あ」

 私の足の周りに散らばるチョコレートたち。ということは、だ。何を踏んだかはあらかた予想がついた。隣で鍾会さんが吹き出すのを横目に、私は片足の裏を覗くと、真っ黒な靴裏に広がる茶色と黄色の混じったチョコが。自然とため息がこぼれる。

「落としたチョコ拾わないと……」

 またもや鍾会さんの前に跪き、チョコを一つひとつ拾って箱の中に落としていく。その箱を机の上に置くと、椅子の上に戻り、靴を脱いでこびり付いたチョコをウェットティッシュで落としていった。
 落としながら、ふと鍾会さんはどこに行ったのだろうと視線で探した。先ほどまで隣にいて、私のドジに吹き出していたのに。まあいいか、と適当に済ますと、私はウェットティッシュをゴミ箱に放り捨てた。

「淵師」
「はい」

 あ、いたんだ。などと思い、顔を上げると鍾会さんは私の机にマグカップを置いた。ココアだった。突然の優しさに頬が緩んでしまいそうになるが、堪えて、「ありがとうございます」と一礼をする。満足そうに鍾会さんは微笑み、――感想を言うまで退く気はないようだ。
 マグカップを手にとり、一口飲むと、程よい甘さに笑みがこぼれた。

「とても美味しいです」
「……そうか」
「それにしても、どうして私に?」

問うと、鍾会さんは少し恥ずかしげに顔を逸らした。

「……お前のチョコ、が落ちたのは私のせいでもあるだろう」
「そんな、チョコのために。あれは私が鍾会さんをお化けと勘違いしただけです」
「き、気にするな! ……作りたかっただけだ」
「え、」

 あまりにも小さい声に、最後が聞き取れなかった。もう一度言って下さい、と言おうとしたものの、鍾会さんの顔が真っ赤なためにやめておいた。ココアをもう一口飲み、終盤に差し掛かった仕事に手を伸ばす。と、そこで疑問が浮かんだ。鍾会さんはいつ帰るのだろう。気付けば私の隣に座って、監視してきている。

「鍾会さん、仕事はもう終えたのですよね」
「愚問だな」
「では、どうしてここに?」

 冷房のひんやりとした風が吹いた。鍾会さんは一度言葉を濁らせ、来たときから持っている袋を握った。

「部下がこんな夏の日に一人で仕事をしているのだ様子を見に来て何が悪い!」
「わ、悪いなんて言ってませんよ!」

 声を張り上げて怒られてしまった。これは結構驚くし物によっては傷付く。今の言葉は傷付くどころか胸が高鳴ってしまったが。鍾会さんの言葉に顔が熱くなってきた。すっかり仕事に手がつかない。それでも必死に打ちながら、彼の行動を横目にデスクトップに映る文字の羅列に集中した。

「……晩は食べたのか」
「まだです」
「なっ、健康に悪いだろう!」と、立ち上がり怒鳴りだし、
「いちいち怒らないでくださいよ!」と、ココアを飲みながら言い放った。

 謝ることはなかったものの、しゅんと少しうなだれた様子を見て、反省したなと思った。跳ねた髪の毛を弄りだし、鍾会さんは席につく。まったく、勝手に来て勝手に怒って、一体何が目的なのだ。いまいち分からない行動に、これまたムカつきはしなかった。何よりもそれが憎たらしいのだけれど。

「鍾会さん」
「……なんだ」
「ココア、ありがとうございます」

 答えは返ってこなかったが、一瞥してやると、口角が二ミリほど上がっていたのが分かった。髪の毛が犬の尻尾のように跳ねてるように見える。鍾会さんは携帯に手を伸ばすと、なにやら慣れた手つきで弄りだした。

「おい」
「はい」
「仕事、終えたら晩に付き合え」

 そうして、鍾会さんは私に高級ディナーのページを見せてくれる。

「私の奢りだ。ふん、気前のいい上司を持ったお前は幸せ者だな」
「えっ、悪いですって」

 奢られる理由もないし、何より鍾会さん、暑さで頭が狂ったのではないか。

「いいから奢られろ!」
「奢られませんよ!」
「どうしたら奢らせてくれる」

 普段と違って、真面目な表情で鍾会さんは聞いてきた。私の方へ気付けば近付いてきている。一歩椅子を引いて、視線を何度も泳がせながら、ようやく閃いた答えを言った。

「居酒屋なら大歓迎ですけど」
「そうか、それならそこに行くぞ」
「……どうして、そこまで奢りたいんですか」

 もしやと思い、机に置かれる袋を見る。はっと気付いた鍾会さんはその袋を強引にとると、咄嗟に袋からいろいろな物が落ちてきた。中にあるのは、日用品に、コーヒー、それと『デート必勝法』 だとか書いてある本。見ていて恥ずかしくなってきた。鍾会さんは顔を真っ赤にし、私の肩を掴んだ。

「み、見なかったことにしろ!」
「わ、分かってますって! 誰にも言いませんよ!」

 納得した鍾会さんは私の肩から手を離し、私は彼が落とした物を代わりに拾った。すべて袋に戻し渡すと、鍾会さんは「あぁ」と受け取り、微笑んだ。こんな人でもデートに悩んだりするのか、と彼の顔を見つめる。整った顔立ちに、赤が差し込んだ頬、肌は荒れることなく綺麗だった。それでいて会社では優秀な実績を残し、性格を除けば完璧な人だろう。女性に困ることなどないはずだ。

「……あ、もう終電行っちゃったな」

 壁時計を見て、ぽつりと呟いた。都会でもないため、終電の時間は早い。これでは、またホテルで宿泊ということだ。終えた仕事内容を保存し、パソコンの電源を落とすと、肩を揉みながらため息を落とす。

「私の家でよければ、だが……泊まってもいい」
「え、いいんですか? 悪いですよ」
「女なら、す、少しは恥じろ……!」
「いえ、やっぱり悪いですし……。そうだ、代わりにラーメン奢ってくださいよ。女性の落とし方でいいのでしたら、教えますよ!」
「淵師……!」

 やけに睨まれたけど、鍾会さんが頷くのを見て、私はシャツを緩めて帰り支度を始めた。
 最後のココアを飲んで、彼に「付き合ってくださり感謝します」と言うと、彼は目を逸らしてそそくさと立ち上がった。

「早く行くぞ」
「はいはい、そういえば鍾会さんは誰を狙ってるんですか?」
「ばっ……知らん! 置いてくぞ!」

 駄目だ、マグカップが投げられそうだった。鍾会さんの背中についていき、オフィスの電気を消すと、私たちは静かに出て行った。


(ハニー・ハニー・ハニー)

 朝目覚めると、ホテルでもない一室で寝ていた。ふかふかのベッドだが、人はいない。胸騒ぎがして、私は自分の普段着るサイズより大きなシャツがずれないように掴みながら、部屋を出た。

「起きたか」
「やっぱり!」

 これは酔った勢いで泊まってしまったな。それにしても、鍾会さん、どうしてそこまで元気なんですか。そんな言葉は彼のハグによってかき消され、私は必死に昨晩のことを考えながら、とりあえず悪い気はしないため彼に身を委ねた。



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