チョコレート | ナノ

スカートの裾にだきとめた春は

 スカートの裾にだきとめた春は

ねえねえ、と甘ったるい猫なで声が遠くから聞こえた。その声の主の視線先には、女をすべて(馬のエサの)野菜だと思っている馬超くんが机に伏していた。もちろん馬超くんは女の子の誘惑に気付いていない。それどころか終わっていない孔明先生の課題に唸っているようだ。
女の子は自分の胸を彼に押し付けようと、馬超くんの横に座り腕を組もうとしている。わたしより胸が大きいけど、それは駄目だ、女の子。馬超くんには大きさより触り心地が重要なのだから。好きな女ならば何でもいいみたいだけれど、興味ない女の子に関しては馬の毛並に近いものが重要らしい(生憎そんな胸の持ち主に出会ったことはないし、存在もしないだろう)。
女の子の必死な姿を遠くから見つめる自分は些か気持ち悪かった。でも、一応馬超くんはわたしの彼氏なのだから仕方がない。むしろ彼女持ちと知っていて誘惑するのが悪いのだ。

馬超くんはとうとう「ええい邪魔だ!」と怒ってしまった。こんな教室で叫んでしまったら、もちろん視線は二人に集まるわけだ。こんなのは慣れっこだった。馬超くんは馬鹿だけど、そこが女子の母性本能をくすぐるし、人情厚く、物事に対しての熱心な姿勢には密かなファンが多い。馬超くんは趙雲先輩や従兄弟の馬岱くんばりに女子の視線の的なのだった。
ほんの少し、それが嫌だった。女の子は泣き出し、孔明先生と助手の月英さんが教室に乗り込んできた。映画みたいに取り囲まれる馬超くん。そして、孔明先生の登場に悲鳴をあげる姜維くんが、わたしに笑いを呼び起こさせた。

 ▽

「なぜ俺が怒られねばならんのだ……」
「女の子泣かしたからね」
「くそ! おかげで宿題が増えたではないか!」
 
馬超くんは顔をしかめて、悔しそうに言い放った。彼の家に招かれ、二人で宿題をやっていたときのことである。ペンを滑らせながらも、よほど嫌なのか馬超くんは文句しか言っていない。わたしは結構二人で過ごせるのが嬉しいから、その文句がつらかった。
机に置かれた大きなお皿に手を伸ばす。たくさん置かれた透明の包装紙に包まれるチョコレートは、どうやら馬岱くんのおやつのファミリーパックのチョコらしい。人のおやつを食べるのは気が引けるけど、今は糖分で悔しさをおさえたかった。

「すまんな、お前にも手伝ってもらって」
「ううん、いいよ。馬超くんと共同作業ってすごい楽しい」
「そうか! そう言ってもらえると俺も助かるぞ」

太陽のようにまぶしい笑顔を浮かべて言い放った。馬超くんは鈍感で、どんな感情にも気づくことがない。まっすぐに誘惑しても、あの女の子のように怒られるだろう。でも想いを伝えないと、ときどき彼の恋人だということを忘れるのだ。
透明の包装紙の端を引っ張って、チョコを指でつまむと口へ放り込んだ。熱に溶かされるチョコは、わたしの脳と舌に甘く刺激を与えた。指についたチョコを舐め取ると、その様子を馬超くんに見られていたみたいで、少し言葉に詰まってしまった。

「ごめん、意地汚かったね」
「いや、構わん。ただ、お前にチョコを食わせてもらえたら、きっと美味いのだろうな、と」
「ん、いいよ。はい、お口あけて」

もう1個チョコをとると、皿の底が見え始めた。包装紙を引っ張り、今度は彼の口へ。わずかに開かれた馬超くんの唇は乾燥していて、それでも赤く、人間らしい血の通った唇だった。不意に胸が高鳴った。彼でもわたしにキスを望むことが少ないのに、わたしは何を欲情しているのだろうか。馬超くんの口元にチョコをあてると、彼はわたしの手首を掴み、そのまま指先ごとぺろりと舌先で舐め取った。

咄嗟のことに驚いて、わたしは強引に腕を引かせた。机を挟んで、向こうで笑う馬超くんは「やはり甘いな」と何事もないように言い、ペンを持ちだす。

「あの、」
「どうした」
「今のって、何?」
「何って……恋人同士なのだ、恥ずかしがることではないだろう」

「……そっか」平然ぶって、内心心臓が破裂しそうだ。
また二人で宿題をやり始める。今の一分間の出来事は神が許さなかったといわんばかり、消されたようだった。夢だったのかもしれない。ペンを滑らし、視線だけで馬超くんを見る。恋人という言葉が深く、わたしの胸にのしかかっていた。彼は、覚えていてくれた。それが嬉しくて、頬がほころび、馬超くんの手をいちいち止めさせる。

「な、何を笑っている?」馬超くんは書くのをやめて、わたしの方を見た。

「馬超くんの彼女って大変だけど、それでも隣にいられて幸せだなあって」
「周りに公言しない方がいいって言ったのは、お前と馬岱だぞ」

うん、少し答えがおかしいな。俺もだ! という言葉はないのか、彼氏。眉を寄せ、不思議そうにこちらを見ている馬超くんは、微笑むと、わたしの手を包み込んだ。

「俺は淵師との仲を皆に言い知らしめたくてたまらんのだ!」
「……そうなの?」
「あぁ、当たり前だ!」

白い歯を見せて、笑う。

「そっか、嬉しいな」

頬が熱を持ち、ほころんだ。
馬超くんは、とうとう恥ずかしそうに俯き、今度はわたしのためにチョコをあけてくれた。手を伸ばされると、わたしは少し頭を下げて、それを唇で受け取る。ほんの少し溶けたそれは、わたしが食べたときよりずっと甘い。指についたチョコは彼が舐め、そのままキスをした。
初めてのキスだった。唇が離れると、馬超くんはわたしの手をとり、「お前を日に日に好きになっているようだ……」と、深刻そうに言って、横へ移動し、わたしと肩をくっつけて宿題を始めた。お日様の匂いのする髪が、さらりと落ちる。わたしはそれを見て、鳴り止まない心音を聴きながら、指ですくった。気づき視線だけでこちらを見る鋭い瞳が、慈愛を帯びた優しい眼差しになるまで、あと一秒の事だった。



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