チョコレート | ナノ

あなたのせかいにわたしがいる。

 郭嘉が旅に出る1週間前。

「いつか旅に出たいものだよ、淵師」

 男は普段となんら変わらない物腰で言った。
 淵師は突然の物言いに首を傾げ、抱えていた洗濯カゴを床に置いた。

「郭嘉さん一人で、ですか?」
「うん」
「そう、ですか」

 カゴをもう一度持って、無理に微笑んだ。郭嘉はその表情をしっかりととらえ、まだ洗濯をさせまいと言葉を続ける。

「そこであなたが人数を聞いたのは、あなたも来たいということでよろしいかな?」

 孤を描き、淡々と問う。まるで淵師の隠し事を暴こうとしているようだった。郭嘉は既に見通していたのだが。答えを知っているからこそ、彼女の口から聞きたいのだろう。愛する淵師から。人数ではなく場所を聞いていたのなら、郭嘉は淵師にこれ以上なにも問わなかったのだ。

 一度言葉を詰まらせた淵師だが、何度も視線を泳がせ、カゴのざらざらとした感触を指の腹で撫でると、とうとう頷いた。やはりと郭嘉は微笑んだ。そうして止まったままの彼女へ歩み寄ると、その髪を梳いて、瞼に口付けを落とした。

「この旅は私一人で終えないといけないものでね。でも、息抜きとしての旅行なら、いつでも行けるよ。明日でも、明後日でも」
「……何があるのかは聞きませんが、はい、息抜きとしての旅行ならぜひ行きたいです。あなたと、二人で」
「うん、いいね。二人っきり」

 ▽

 郭嘉が旅に出る3日前。

 お酒入りのチョコをつまみながら、暗い部屋で映画鑑賞をしていた。昨日借りてきた映画の一つで、内容は猫と家族のかかわりを描くものだった。映画に出てくる猫は己の死期を悟ると、家族を置いてどこかへ行ってしまうのだ。それから家族の信頼が強くなる、よくある感動のドラマだった。
 映し出されるスクリーンの光によって青白くなった手がチョコをつまむと、口へと運ばれる。弾けるように溢れる酒の味を堪能しながら、真っ直ぐ画面を見た。すっかり見入ってしまっていた。隣にいる郭嘉が眠そうに欠伸をしているのに一瞬意識をとられ、大事な台詞を聞き逃してしまったことは残念である。

 やがて映画を観終えると、既に郭嘉はうとうととしていた。

「結構悲しい映画でしたね」
「……そうだね」
「あっ、寝るのはちゃんとベッドで、ですよ」
「分かっているよ」

 郭嘉はふらりと立ち上がり、ベッドへ一直線に向かう。そんな様子を見て、なぜか猫のように見えた。酒が回って思考がおかしくなってきたのだろうか。微量といえども、ありえる話だと納得する。郭嘉がベッドに横になるのを見送り、淵師もあまったチョコを片付け、就寝の準備を始めた。やけに後ろ髪を引かれてしまった理由は、未だ分からない。

 
 郭嘉が旅に出る1日前。

 朝から、明日の郭嘉の旅に向けての準備のために、あちらこちらと駆け回っていた。キャリーバッグに思い返すための写真や手紙を入れていたら、いつの間にか入らなくなってしまっていた。それでも懸命に思い出を残そうとする淵師をみて、郭嘉は愛おしさと、二日前に見た映画の家族みたいだと頬を緩ませた。その場で膝をつき、ぐいぐいと写真立てを押し込むと、横から彼の衣服がはみ出てしまう。口をへの字にして、淵師は手を止めた。
 にゅっと手を伸ばした郭嘉は、そんな彼女の頭を何度となく撫でた。だんだんとへの字が戻っていくと、その口元は緩みだし、淵師は笑顔を浮かべた。

「郭嘉さんのおかげで笑顔になっちゃったじゃないですか」
「うん、それでいいんだよ」
「でも、怒らないんですか?」

 淵師の問いに郭嘉は目を丸くした。そして、それが笑いの元となり彼は笑んだ。

「せっかく笑顔になったのに、怒るわけないよ。ううん、それだけじゃなくて、怒れないんだ」
「あまりにも馬鹿ばかしいから……」
「あなたの笑顔を見ていたいからね」

 さらりと言いのける郭嘉に淵師は頬を赤く染めて、俯き、ただ写真立てに写る二人の笑顔を見て胸を痛ませた。どうして笑顔を見ていたいのなら、理由もなく旅に出るのだろうか。いや、理由はあったとしてもその理由は何なのだろうか。淵師は結局郭嘉と旅に出ることができていなかった。それだけが何よりもの心残りだった。

 郭嘉が旅に出るまで、あと一日しか残っていないのである。あまりに早急に決まった事態に、淵師はどこか安心していたのかもしれない。計画がないから、きっと帰ってくると。彼女は顔を上げ、膝を少し伸ばし、郭嘉の頬に口付けをした。


 郭嘉が旅に出る当日。
 郭嘉の旅はいつ帰ってくるか分からないものだった。もしかしたら帰ってこられるかもしれない。それを聞いて理由を問いただしたくなったが、淵師は心のどこかで聞いてはいけないと思っていたため、口を閉ざした。そして微笑み、「行ってらっしゃい」とだけ言ったのだ。彼はもちろん驚き、笑って、淵師の唇に口付けをする。そのとき、りん、と軽やかな鈴の音が鳴り響いた。

「鈴……ですか?」
「うん。あなたが私を猫みたいと言っていたからね」
「えっ、声に出していましたか?」
「それはもう、はっきりと」

 嘘だ、と思うも郭嘉の表情はいたって真面目なものである。淵師は言葉をなくし、頬が上気するのを感じながらじっと郭嘉を見つめた。別れが惜しい。いや、別れじゃない。また会いに来てくれる。淵師はそれだけを胸に、とびっきり笑むと、もう一度「行ってらっしゃい」と言い残した。

「じゃあ、行ってきます」

 ▽

 郭嘉が旅に出て365日。
 
 口をへの字にしたままの淵師は、一年前に郭嘉を見送った玄関で物を漁っていた。朝起きたとき、ベッドの横に手紙が落ちていたのだ。封の中には「玄関」と書かれたもの。見慣れた筆跡に何度か涙を落としてしまったが、淵師はすぐに起き、今に至る。

「どこなの……」

 弱々しく漏らした声に、重なって鈴の音が傍らから聴こえた。
 振り向くと、そこには色褪せた手紙が一通、そして、見慣れない猫が一匹。どこから入ってきたのだろうか。誰かの飼い猫だろうか。淵師の体に擦り寄り、何度も周りをうろちょろされると些かくすぐったい。淵師は猫の頭を撫でて、首元へ滑らせる。
 りん、りん――
 猫の首輪についた鈴の音に、淵師は体を後退させた。
 この音、は。どう考えてもあの人のものに違いない。口元を震わせ、はっとなると、猫が口で引っ張っている手紙を手にとった。猫は満足そうに鳴き、淵師の足の上に乗ってゆっくりとくつろぎだす。
 淵師は手紙の封を切り、一枚の紙をとる。

「郭嘉さんの、字……」

 紡がれるのは、何なのだろうか。

『旅先で待っている。淵師がいずれ向かう旅先を私だけで案内できるように、私は先に見てくるから。鈴の音と共に。
 私のことは、あなたの人生のチョコレートのようなものだと思ってほしい。甘いけど、溶けたらおしまい。でも、忘れない限りいつでも手に入る。そんなものだと。
 いつまでもありがとうを伝えているから。

 P.S. 笑って、来てね。』

 ぱさりと手紙が落ちる。猫の上にかぶさり、その上に涙を何度も落とした。一粒猫の体に落ちて、猫はにゃあと鳴いた。心配するように、首を傾げ、忌々しいほどに欲した鈴の音を鳴らす。淵師は猫の体を抱いた。とても暖かかった。久しぶりのぬくもりだった。生きているもののぬくもり。涙が猫に浸透して、よく吸い込んだ。猫はもう一度、鳴く。

 ――どうして怒らないんですか?
 ――あなたの笑顔を見ていたいからね

 鳴いて、擦り寄り、淵師の涙を舐めた。
 くすぐったくて淵師は笑う。猫は嬉しそうに尻尾を揺らし、喉の奥から力強く鳴いたのだった。


 郭嘉が旅に出て16436日目。
 
 淵師の膝の上で猫が何度も鳴いていた。その頭を撫でる。
 世界が逆さまになった。暗転。ゆるやかに目を開くと、星が弾けて、体が軽くなった。
 何事かと淵師は己の手を見ると、若々しくぴんと張り詰めた白い肌が見えた。もしかして、と頬を包むと、淵師は郭嘉と別れたあの日に戻っていたことがわかった。
 辺りを見渡す。やけに美しく、澄んでいて――鈴の音が、――後ろから聴こえた。
 淵師は振り返る。あの日と同じとびっきりの笑顔を浮かべて、「おかえりなさい!」と。答えが返ってきた。猫の鳴き声ではなく、45年間待ち焦がれた、あの声音で。何度も、何度も涙のように名前を呼ばれる。この涙は、淵師が受け取る番だ。そうして、淵師は郭嘉を抱き締めると、鈴の音はすっかり消えてしまっていた。


「あなたのせかいにわたしがいる。それだけでしあわせだなんておもうんだよ。」



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