チョコレート | ナノ

輝かしい来世に乾杯

 輝かしい来世に乾杯

 夏の夜風に髪をなびかせ、アルコールの入ったブランデーチョコを口へ運ぶ様は妙に大人びていた。これが俺の愛した彼女だったのか、と思うと、俺もいい女を貰ったものだと神に感謝をしたくなる。それと同時に、“愛した”と過去形でもあり現在完了形にした辺り、彼女のいう迷信を信じているからだろう。今日は夏にしては涼しかった。きっと、そのせいだ。熱に浮かされ、その熱は風が冷ましてくれる。横には最愛の妻であり生徒が一人。その手には、度数の高いチョコが一つ。

 ▽

 ぱたぱたと慌ててベッドから起き上がる。横で眠る最愛の先生であり旦那を起こさないように、忍び足で部屋から抜けるとそこからは大慌て。彼の好きなコーヒー豆を挽いて、その間に豪華な朝食の準備。三時間前にわざわざ起きて干した、夏のお日様の匂いをたっぷり吸い込んだからからのシャツを一枚取ると、その匂いを嗅ぎ、頬を綻ばせる。
 テレビをつけるとちょうど星座占いがやっていて、今日という日にも働く占い師や天気予報士たちに心から感謝をしておいた。そうしている間に豆は挽き終わり、万遍なく芳しい匂いを漂わせるコーヒーをマグカップに注いだ。朝食も皿に盛っていき、綺麗に装っていくと、準備万端といわんばかりに頷いた。

「ほら、呂蒙さん! 起きてください!」
「今日は仕事が休みだろう……なんだったか、その……」
「世界が滅亡する、です。だからこそですよ、呂蒙さん。ほーら!」
「分かった、分かったから髭を引っ張るのはやめんか!」

 呂蒙さんは心底痛そうに眉根を寄せ、私の手を止めようとする。すっかり眠気は覚めたようだった。渋々起き上がり、すぐに歯磨きをしようとする彼を見送ると、私は速攻でベッドメイクを始める。シワ一つ残さないように、朝から汗をかきながら仕事をした。

 今日は世界中(主に私)で騒がれる世界滅亡の日だった。私はこの日がとても楽しみであったため、前日からいろいろと用意をしていた。まず豪華な朝食の食材、それに上質なコーヒー豆、いつも面倒くさくてしないシャツの完璧な防臭だ。ほかにもある。朝食を食べたら予約していた高級ホテルへ行き、近くの遊園地へ遊びに向かう。そして散々遊んだら高級ディナーを済まし、星三つの世界一美しい夜景を見に行くのだ。そこで熱情的なキスを――

「淵師、靴下は知らんか」
「……その棚にありますよ」

 まったく、もっと私の夢に耳を傾けてくれてもいいだろうに。そう思いながらも、呂蒙さんのお着替えシーンを朝一で見られたため満足だ。彼が椅子に腰掛け、淹れたてコーヒーを飲んだときの笑顔がまぶしい。

「今日のはうまいな」
「ありがとうございます!」
「それに……うむ、朝飯も最高だ。やけに張り切っているが、何かあったのか?」
「ふふ、なんとなくです」

 その途端にテレビで大々的に報道される世界滅亡のこと。呂蒙さんは大きな溜め息と同時に、私に向かって微笑んだ。とっさの笑みに胸が大いに高鳴るが、テーブルを挟んで座る彼はわざわざ手を伸ばし、私の頭を撫でてくれる。それだけで心臓はパンク寸前、早く誰かに落ち着けと言われないと破裂しそうだ。

 呂蒙さんはコーヒーを一口飲むと、「そういえば」と口を開いた。

「お前が勝手に予約をしていたリゾートホテルから電話がきていたが、断わっておいたぞ。全く、勝手なことをしおって」
「えぇっ!」
「いいか、今日はいつもと変わらん休日だ」

「世界滅亡なんぞありえん」と、呂蒙さんは言って、食べ終えた皿を片し始める。私はその背中を見つめながら、いじけてソファーに腰掛ける。防臭したシャツを握り締め、そのまま寝転んでやった。彼はそんな様子を見て、こめかみを押さえながら私の方へ近寄る。頭の上にすっぽり呂蒙さんは座ると、私の髪を掻き分けながら、優しく何も言わずに横にいてくれた。

「そうだ、淵師の見たがっていた映画がDVDになっただろう? 今日はそれを見るのはどうだ? それに、俺は世界滅亡の日は、お前の手料理をたらふく食いたいぞ」

 まだ、優しい声音で言葉を続ける。

「一秒でも淵師の顔を見たいものだが……仕方あるまい、俺はここから、」
「待ってください、呂蒙さん」
「ん?」

 まったく、どうして自分がうまく丸め込まれたことに気付かないのだろう。呂蒙さんは不適な笑みを浮かべると、私の額に口付けをして、肩を引かせた。シャツ越しに伝わる熱が、じんわりと温かくて、むしろ暑いぐらいだった。子ども体温め、と嫌味を小声で囁くと、彼はさらにきつく私の肩を揉んだので、とりあえず謝っておいた。

 ▽

 世界滅亡が殊更に騒がれるなか、冷房をがんがんにつけてお皿を洗っていた。そこに呂蒙さんがやってくると、後ろから私の手を止めさせ、「今日ぐらいやめておけ」と囁いた。低い声につい体が硬直してしまう。呂蒙さんは満足そうに頷くと、私の手を拭き、そのままソファーへと導いた。テーブルに置かれたのは高そうな箱に入ったチョコ。それをまじまじ見ていると、呂蒙さんは一つ摘まみ、私の口元へ運んだ。とりあえず受け取り、口の中で溶けるチョコを味わう。中から熱い液体が溢れてきて、すぐにお酒なのだと分かった。喉がかっとなって、渋い顔をしてしまう。

「おいしいです、けど……私、そんなにお酒は」
「む、すまん。お前も好むと思っていたが……」

 呂蒙さんも一つ食べると、「苦いな」と言って顔をしかめた。そんなに甘い物が好きだったか、とおかしくて、私は彼の肩に頭を預けた。もし今日が世界滅亡のする日なのだったら、こうやって寄り添うのも最後なのか。少し淋しい。

 元は先生と生徒で、今は夫婦になった私たちは出会ってから片時も離れず傍にいる。死ぬときももちろんその予定だ。確かに私と呂蒙さんには歳の差が大いにあるけれども、そんなもの苦ではない。百合の花に囲まれてでも、すぐに会いに行きたい。そんなことを彼に言えば、きっと大喧嘩になるから口が避けても言えなかった。

「淵師、少し涼まんか?」
「はい、いいですよ」

 呂蒙さんの節くれだった指先に、自分の指を絡める。その皮膚の硬さも、浮き出た血管もすべて、指の腹でなぞる。いとしく思った。きっと、今の私は幸せ者だと。

 窓を開けて、ベランダに出て行く。呂蒙さんはチョコを一緒に持ってきていた。私は自分からそれを食べると、意外と口に合うと思い、指先についたチョコも舐めとる。舐め取ると、呂蒙さんに突然キスをされた。すぐに離れて、私は彼を見る。もう一度触れ合って、――離れて、最後に一回。は、と酸素を取り込み、すっかり忘れてしまったチョコの味を思い出そうと、一粒摘まんだ。

「世界滅亡も、淋しいものだな」

 呂蒙さんは、それこそ寂しさを物語るように言った。私は彼の視線の先、星空に目を奪われながら、チョコを食べた。甘くてすっぱくて、喉がぴりっとするのに、切なかった。これで終わるんだ、と言っている気がした。

「手を、繋ぎたいです」

 気付けば、指先が解かれていたのだ。

「あと、キスと、チョコと、強いハグをください」
「欲張りだな」

 呂蒙さんの指先が、私の頬をなぞった。必死に彼の指先に絡まると、呂蒙さんは私にチョコを食べさせ、そのままキスをした。とても甘かった。黒板を消すときの気だるさを思い出してしまった。無情にも時は過ぎて、私たちは大人になる。今こうやってキスをされるとき、一つ歳をとった気がした。

 口元についた茶色のものを、私は指の腹で拭ってあげる。同じ動作を、呂蒙さんはした。手を戻そうとしたとき、私のひじが残り一粒のチョコの箱にあたって、それは宙を舞って落ちていった。あ、と声を漏らした頃には遅い。呂蒙さんの方を見ると、自信満々に笑んでいた。

「世界滅亡の日ぐらい、蟻にも夢を見せるか」
「……なんだかんだ言って、呂蒙さんの方が楽しそうですね」
「ふ、そう見えるなら、そうだろう」

 呂蒙さんは私を強く抱きしめた。夏の夜風に負けないほど、きつく。もう一生離さないようだった。私は気付けば涙を落としていた。この温もりが、もし最後だと思ったら、ダメだ、それ以上は考えたくもない。
 背中に腕を回し、私も赤子が人形を抱くように抱いた。いつの間にか、朝防臭をしたシャツを着てくれていた。たまらなく嬉しくて、シャツの上から彼の胸元にキスを落とす。

「泣くな、淵師」
「俺も、泣きたいのだ」
「なあ、淵師」

 優しい声が、ゆるゆると遠ざかる。涙が止まらないのに、世界から星が消えていくのが怖くて、私は呂蒙さんから目を離そうとはしなかった。ぐちゃぐちゃの顔を見て呂蒙さんは笑う。その笑顔を一生忘れない。私は、最後に残ったチョコを食べておけば良かったと思い、目を閉じた。十二時を告げる鐘が鳴る。世界が終わる気がした。

 ▽

 起きると、私の生まれたてのときと同じ体を包む柔らかい布団に、汗で張り付いた髪の毛がまず目に入った。そして、リビングから聞こえる大好きな人の怒鳴り声。その声に慌てて、私は愛言葉で返事をし、寝室を裸で飛び出した。




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