この一撃をくらえよダーリン
バレンタインの日が終わってまもなくの頃。
私はいつもより多い生徒のカップルに頭を悩ませながら廊下を歩いていた。チョコを渡して成功した者が浮かれているのか、廊下は雰囲気そのものがチョコのように甘い。もはや甘ったるいといっても過言ではないぐらいだ。冬だからどれだけ密着しても「暖かいね」とさらにいちゃいちゃ。キスしても「チョコの味がする」だとかなんとか、なんだ生徒諸君、少女漫画かと突っ込みたくなる台詞だな。
恥じてる様子を微塵も感じない生徒の一部を一瞥し、私はようやく実験室にやってきた。昨日、学校内でも人気のある関兄妹、張兄妹からボランティアで先生方へと、貰ったチョコのおすそ分けをしてもらったのだ。冷蔵庫にしまってあるダンボール一つ。その中には、生徒たちの愛情の形がある。そんなものを頂くのは気が引けるけど、あの兄妹たちが糖尿病になったら大変なので仕方ない。
既にダンボールからはかなりのチョコがなくなっていた。余っているのは銀屏さんへ宛てたであろう男からの逆チョコに、板チョコばかり。どれを貰おうか……さすがに、生徒の手作りチョコは貰いたくない。そう考えるとかなり絞られてしまった。
「あ、このチョコ、ブランドものじゃない」
「あの、淵師先生」
「はーい……うん?」
名前を呼ばれ振り返ると、何やら見覚えのある生徒が私にチョコを突き出してきていた。
何事か分からず、呆然として生徒――姜維さんの頭頂を見つめた。
特徴的な髪は控えめな茶色で、頭頂のぴょんと跳ねる髪は真面目な彼のイメージを和らげてくれる。と、思って、ようやく姜維さんは顔を見せてくれた。
「すみません、突然」
「あはは、そうね。気にしないで」
「あの、先生」
「はい」
「これ、受け取ってください!」
「やっぱりそうなるのね?」
うーん、と首を傾げ、顔を真っ赤に染めつつチョコを突き出したままの生徒を見つめる。先生だから受け取れない、と言うべきか、何やら手作りっぽいし貰うべきか。そもそも私、姜維さんと喋ったことあるのだろうか。逆方向へ首を傾げる。やはり分からない。
「ええと、本命……?」
「はい」
「私の職業は何?」
「教師で私は教え子ですね!」
「よくできました。だからごめんなさい」
「理由になってません。お願いです、貰ってください。想いだけでも伝えておきたいのです」
「立場上駄目なの、ほら、姜維さんから貰うだけで私転勤になるかも」
「今貰おうとしてるのに、ですか」
「うっ」
さすが頭の切れる強者だ。姜維さんは頬の紅潮もだいぶおさまり、今では私の隣に並んでいる。はっと実験室の扉のほうを見た。閉まっていた。カーテンも閉じてある。まさに二人だけの空間といった感じだ。じりじりと詰め寄る姜維さんに私の息が詰まりそうになる。そこで、「あ」と思い出すように彼は口を開くと、さらに言葉を続けた。
「間違えました、先生には尊敬している、という意味のチョコでした」
「え」
「本命は彼女にあげるつもりだったのですが……はは、すみません」
「はぁ、そうなの」
いざそう言われると、少し残念。いや、残念と思ったら駄目なのだ。姜維さんは生徒だし、本命を貰わないのは当たり前のこと。姜維さんは、少し小さめの箱を持っていた鞄から取り出すと、私に突き出した。
「今度こそ……受け取って下さい、淵師先生」
「……ありがたく、受け取るわね」
「あ、ありがとうございます!」
それなら、今姜維さんから貰ったチョコと、最初に見つけたブランドものを持って帰ろう。私は二つの箱を鞄に片付けて、姜維さんに改めて頭を下げた。彼が少し頬を染めて目を逸らしたのが妙に気になるけど、仕方のないことだ。何せ、本命と間違えて誤爆したのだから。実験室から去る姜維さんは、最後に「そのブランドもの、美味しいですよ!」と、とびっきりの笑顔を浮かべて言い放った。私はいまいちその意味が分からなかった。
▽
「でさ、懐かしいね」
「そんなこともあったものだな……」
バレンタイン当日、デパートはチョコレート特集で賑わっていた。人ごみを掻き分けながら、二人で寄り添いながらどのチョコを買うか悩んでいたのだ。そこで、少し思い出話が出てきて、あの日私が二つ持って帰った姜維のチョコを買おうということになった。
「あの日はほんとびっくりしたんだから。本命じゃないと思ってたら本命だし、もう一つのブランドものも姜維の偽装本命チョコなのよ?」
「そうしてまであなたに渡したかったのだ。はは、おかげで今私の隣にいるだろう?」
「まあね、そうなのが悔しい」
手に持つ紙袋の中には、あの時と同じ箱に包まれたチョコが二つ。家に帰って、メッセージを書いたら交換するのだ。今度は私が義理チョコだと騙してやろうか。それとも、とびっきり日頃の不満を書いてやろうか。まず書くことは、早く先生呼びをやめろと言うことだ。私は姜維の横腹を小突くと、「何をしているのだ、先生」と冷ややかな眼差しで見つめられてしまった。待ってろ元生徒の旦那候補、と思い、考え方が古臭いと苦笑して彼の眼差しを無視したのだった。