▼ まずは小さな一歩から
楽進から薦められた一人の将が、今日やってくると聞いたのはついさっきのことだ。
「すみません、言ってしまうと断わられると思っておりましたので」などと適当に流すだけでなく、目を泳がして逃げていった楽進の逞しい背中は一生忘れることはないだろう。
俺は別に新しい配属将が来ることに怒っているのではなかった。せめて、知らせてくれれば俺だって何かもてなしができたかもしれない。いや、別に野郎をもてなす気はないのだが。あいつが薦めてくるということは、よほどの腕利きだろう。とにかく、俺が少しでも楽をできるのならば、容姿も性格もどうでもいい。
そんな適当な思いで、室にこもっていた。いつやってくるかなども考えることなく。
ふあ、と本日12回目のため息を落とす。落とすと同時に、机の先、扉の向こうから控えめに喋る声が聞こえた。
「あー、入ってくれ」
「失礼します」と、女みたいに細い声。
視線は書物へむけたまま、やけに男のくせに細い声だな、戦場で腕が立つならどうでもいいか、などと考えてしまった。しかし、入ってきたはいいものの、以降物音がせず、俺はとうとう顔を上げる。
そこで、俺は目を疑ってしまった。何をすればいいのかわからず立ち尽くすのは、どう見ても男ではなかったからだ。華奢な体つきに、長いつややかな髪、それにその、なんだ、あるんだなこれが、胸元の確かな膨らみが。はっと、おっさん臭い視線の寄こし方に気付き、体をこわばらせる。何を言えばいいのか、と頭が真っ白になってしまった。
「なまえ……だよな。あんた、その、女なのか?」と、問うと、
「は、はい。あの、楽進さまから聞いておられませんか……?」と、控えめに笑んだ。
なんて可愛らしい笑顔なんだ、と思ってしまった自分に呆れる。それと、楽進に対してほんのりと怒りを。なまえに座れと進言すると、彼女は戸惑いがちに椅子に腰掛けた。その仕草までもが女のもので、室に女官以外の女を連れ込んだ経験がなかったため、緊張してしまった。まったく、情けなくて仕方ない。
「……あんた、戦えるのか?」
「あっ……はい、その、李典さまほどの武勇ではないと思いますが、一応戦場には立たせてもらってます」
「へぇ」
じゃあ、こんな可愛い顔で槍とか振るうのだろうか。想像がまったくできなかった。
何を喋ればいいかわからず、口を閉ざす。どちらが先に喋るか、俺の勘だとなまえな気がする。
「あの、お茶はいかがですか?」
「やっぱりな」
「え?」
「気にすんな。あー、茶、貰うぜ」
むず痒くなってきたせいか、頭を掻いて、書物へ目を向けた。……つもりだったが、なまえが歩く様子を見つめてしまう。戦場に出るということは、鎧を身にまとい、男だらけの軍に混じるということなのだ。身長は勘でだが、蔡文姫殿と同じくらいだろう。やはり目立つのではないか。
「どうぞ」
「あぁ、悪い」
こと、と置かれる茶器を見て、俺は早速口へ運んだ。
「へぇ、あんた上手いな」
「あ、ありがとうございます」
ふわり、と微笑むなまえの表情に、目を逸らす。女慣れはしてるつもりだったが、駄目だ、こいつは。気付けば顔が熱くなってくる。この感情を俺は知っていた。
「あの、大丈夫ですか? 気分が悪いのでしたら、」
「い、いや、大丈夫だ!」
「そうですか……?」
眉を下げて、心配そうに見てくるなまえ。今までは気分が悪くなったとしても、やけに大声で騒ぐ楽進や、酒を薦めてくる軍師殿、笑顔で乗り切ろうとさせる夏侯淵殿など、あまりいい思い出がないため、どう反応したらいいのかが分からなかった。
茶をすすり、もう一度押し黙る。なまえがなにか急いでいる様子だった。
「そろそろ楽進さまのところにも顔出ししないといけませんので、先に失礼しますね」
「そうか」
「それでは」
「ま、待ってくれ!」
なまえは扉の前に立ちすくんだ。
「……これから、よろしく頼むな」
「……は、はい! よろしくお願いします、李典さま!」
そうして、なまえは笑った。
駄目だ、これは俺の勘だと一目惚れに違いない。楽進に怒りを感じたのが嘘のように、ただ今は感謝をしておいた。……とりあえず、今度から少し恰好つけて頑張ってみるか。
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