10000企画 | ナノ


▼ きれいにしてまってるね

雪が降っている。この季節になると、ごく稀に降ることがある。頭と肩に積もる雪を払い、目の前にいる将軍からの言葉に、私は息を飲んだ。物静かに告げた言葉に、動揺を隠しきれるわけもなく。

「賈クが裏切った」





ひどく寝汗をかいてしまった。未だばくばくと刻む心臓の前に手をかざし、何度も息を整える。今のは夢だ、夢――と、言い聞かせるも、やはり心臓は脈打つばかり。どうしたものかと瞼を落とすと、浮かぶのは先ほど見た嫌な夢だった。私はぼんやりとしたままの脳を働かせ、とりあえず外の景色を見る。すでに陽が顔を覗かせている。
それを確認すると、今の時間ならば宮内を歩いていてもおかしくないと確信をした。立ち上がり、身支度をすることもなく私は彼の、――賈ク殿の室へと向かった。
縁側を歩くとき、一面に広がる景色にどこか懐かしくなる。石階段によく二人で腰掛けて談話をしたものだ。都に入って街の人たちに挨拶をされながら、宮へと帰るとき。
そして、そういった幸せな光景ののち、瞼を落とせば蘇るのは今日の夢。見張り番に礼をして、私はようやく賈ク殿の室へとたどり着いた。

一度賈ク殿が起きているかを確かめようと思ったが、今さら関係ないと思い、静かに戸を開く。ぎぎ、と床との摩擦音を耳にしながら足を踏み入れた。
部屋の奥にある文机まで導くように置かれた机には、適当に並べられた竹簡がある。寝台まで繋がっている文机への小さな段差をのぼり、私は賈ク殿が眠る寝台の前に立った。壁に向かっているため、顔がよく見えない。けれど、眠っているのだけは分かる。息を吸うたびに上がる肩元を見つめると、不意に切なくなった。

「賈ク殿」と、ひとつ名前を呼んで、寝台への入り口に腰掛ける。髪を触ったら起きるだろうか。起こすのは気が引けるので、触らずにただ見つめていた。さらりと黒髪が頬へ落ちる。自然と起きる行動すべてに、彼がここにいるのだとよく理解できる。私は我慢ができなくなって、彼の肩に触れた。びく、と震える。つい可愛い人だと思ってしまった。
賈ク殿がもぞもぞとこちらへ体を向けるのを、私は心臓に早鐘を刻ませながら見つめる。目を開くのを待つのだ。ただ、静かに。そして、そのときはすぐに訪れる。

「……なまえ」
「おはようございます、賈ク殿」
「なんだって、こんな朝方に……」

蝋燭の光も何も無い、わずかに明るみがけている窓越しからの光だけで私は賈ク殿の輪郭を見つけようとした。控えめにこちらに手を伸ばす彼の手を受け止めると、頬にあてさせて、微笑む。

「嫌な夢を見たのです」
「あははあ、そうかい。どんな夢だったんだ?」

賈ク殿は上半身を起こして、私に水をとるよう言った。言うとおり器に注ぐと、それを彼に渡してもう一度言葉の続きを連ねていく。先ほどまで見ていた夢。雪が降る日に、賈ク殿が魏から離反したということ。これまでに見たことがないほどの大雪で、同様に息も、思考さえも白く染め上げるものだった。

賈ク殿はそれを聞いて小さく笑うと、私の手を握りしめる。

「あははあ。ありえない話だね、それは」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「あぁ、気にしないことだ。なまえ殿」

賈ク殿は私の肩を掴み、熱を持つ胸板に体を委ねさせる。冷えた体に熱が浸透する。彼が傍らにいることで感じる安心感もあってか、瞼が重くなっていく。
「なまえ殿」と言って、賈ク殿が私の額にかかる髪を梳くたび。ーーわずかに触れる唇にさえ、私の胸はきつく締め付けられるのだ。賈ク殿がいなくなる夢というのは、夢といえど良いものではない。できれば、生きている限り一度も見たくないものなのだ。

「なまえ殿の髪はとても綺麗だ」
「賈ク殿……」
「俺はあんたの髪に触れるたび、年甲斐もなくいとおしくなるもんでね。……あー、一度しか言わないよ」

と、賈ク殿は微笑んだ。すでに目は暗闇に慣れてきていて、彼の輪郭をなぞれるほどだった。私は返事をする代わりに、賈ク殿の背中へ腕を回した。賈ク殿もそっと抱きしめてくれる。このまま眠ってしまおうか。言葉にする前に、しずかに私たちの体が横たわったため私は笑ってそのまま瞼を落とした。





彼に褒められた黒髪が伸びた頃、私はしずかに空を仰いだ。ここは元は賈ク殿の執務室だったところだ。今は誰もいなく、あの時のまま、竹簡も書物も、壺も置かれている。部屋だけが綺麗なのは、きっと誰かが掃除をしているからだ。窓から射し込む光を見て、あくびを一つ。私は今日も待っているのだ。
忽然と姿を消した賈ク殿を。雪が降る日、戦時中に彼はいなくなってしまった。私に一つの伝言を残して。

「きれいにしておくこと」と、書かれた文。その綺麗、というものがこの部屋のことか私の髪のことかは分からない。ただ待つことしか与えられない私には、浴場で髪を丹念に洗うことばかりを頑張っている。

私は明日も待つのだろう。すでに、この宮に人はほとんど寄らないのだから。




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