10000企画 | ナノ


▼ この奇跡を運命と呼ぼう

戦況はけっして良いものとはいえなかった。両軍共々守りに徹しているせいで、時間ばかりが無情に過ぎ、兵糧は減ったところで増えるわけでもなかった。兵の数は敵が圧倒している。そのこともあり、蜀軍はむやみに動けばいつ挟撃されるかも分からない状況であった。互いに、敵軍全体を采配している将には手が届くこともなく、時間だけがただ過ぎていくだけである。
むず痒さに、つき飽きた溜め息を何度もこぼす。同時に浮かぶのは、今回の戦で前線にて戦っている趙雲殿の姿。彼に限って何か起こるわけがない。そう思うものの、趙雲殿の背後を守る軍団の幾つかはすでに疲弊しており、彼の功績さえ耳に届く数が減った。
私は後退した軍の将の一人だった。けっして私自身が怪我や疲労をしたわけでなく、次の陽動部隊として選ばれたのである。そのことは趙雲殿は知っているのだろうか。できれば知られたくない。彼が知ったら、きっと怒るだろう。そのことが恐ろしかった。趙雲殿ほどの将となれば私情で動くことはないと思うが、そこがまた私の心を複雑にする。
唇を噛み締めて、踏み荒らされた草が散らばる地面を見つめた。やってきたときは、若葉色を添えて生い茂っていたというのに。
草花にも申し訳なくなるほどに疲れているのかと呆れると、ちょうど諸葛亮殿がやってきた。

「なまえ殿、進軍をお願いします」

この人はどのような状況でも取り乱さない人だ。と、尊敬する。それはそうか。軍師だから取り乱してはいけないし、常に鮮やかな采配をとらなければならないのだ。

「はい!」と、私は拱手をする。これが進軍の合図だ。すぐさま軍に号令をかけて突撃を合図する。このまま北進し、その間に趙雲殿らがいる前線部隊が背中を見せる兵を叩くという策を、諸葛亮殿は考えたようだ。

私たちが失敗をしようと、成功が見えると諸葛亮殿は言っている。その言葉は私に安心感をもたらした。逆に犠牲は多いということにも聞こえたのは、気のせいだと信じて。


……だから、だろうか。地面にひれ伏し、立つこともできずに水を吸い込んだ土を握った。悔しい。唇を噛み締めたところで、身体中の痛みが私を蝕むだけだ。私たちが囮として動いたは上々、策は見事に成功をおさめた。しかし、犠牲はあまりにも多すぎた。
それが私の部隊である。そこまで数が多くなかったため軍は数に圧倒されて壊滅、私自身も深手を負ってしまっていた。
立とうと腕に力をこめるものの、半ばで崩れてしまう。苛立ちと焦燥ばかり募るなかで、趙雲殿の姿がよぎった。策が成功したということは、彼は今頃敵拠点を攻めているか、一旦撤退をして状況を見定めているかのどちらかだ。
できれば後者であってほしいと思った。でも、と反対もしたくなる。
このまま野垂れ死をするくらいなら、最期までちゃんと趙雲殿といたらよかった。悔しさに歯を食いしばり、目を瞑る。

どこかで兵士の声が聞こえた。私たちの軍を探しに来たのか、声はどんどん近づいてくる。よく耳を澄まして、どれだけ細い声であろうと絞り出し、返事をした。

「――、なまえ、目を開けるんだ!」

その声にさらに返事をしたのは、恋い慕う者からだった。

「趙雲……殿……」
「あぁ、よかった……。なまえ、戦いは無事終わった。今から、私たちは帰るんだ」
「そうでしたか……」

よかったです、とは言えず、口を閉ざした。
趙雲殿は傷に触れないよう、ゆっくりと抱き起こそうとする。慈悲深い劉備殿が持たせたのだろう、側にいた配属の将が湿った布を趙雲殿に渡し、それを私の傷口、――腹部にさっと巻いた。

「痛いかもしれないが、すこし我慢してくれ」

そう言って、傷口をぐっと抑えながら布の結び目をきつく締めた。痛みに堪えられず、小さな悲鳴を漏らしてしまったが、趙雲殿が私の頭を撫でてくれたために涙がこぼれそうになった。

「よく頑張った、なまえ」

頬を親指でさすりながら、趙雲殿は微笑む。
「ありがとうございます」と返し、私はその頬を指先でなぞった。人肌は暖かい。生きてて良かったと思わせる。「でも、」と、私は頬から手を離した。

「趙雲殿のおかげです」

そう言うと、趙雲殿は優しく「そうか」と頷いてくれた。その笑顔さえも幸福を与えてくれる。趙雲殿は、揺れる意識の中で私の身体をずっと抱きかかえてくれていた。彼の君主のように穏やかな眼差しで、ずっと見てくれていた。

「いずれ、劉備殿がなまえの軍を救いにこちらへ来るだろう。それまでの辛抱だ」
「趙雲殿がいてくださるなら、待てます」
「はは、嬉しい言葉だな。共に帰ったら、二人で祝杯をあげよう」
「はい、楽しみにしてますね」

微笑んで手を伸ばすと、趙雲殿はその手の指先に口づけを落とした。その場所は熱を孕み、しびれを残す。生きててよかった。彼が私の名前をしずかに呼ぶのを聞いて、私は笑う。ちょうど雲に隠れていた太陽が姿をあらわした頃だった。




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