▼ 舌先に残る苦味だけ
だから苦手なんだ。
どこぞのいいとこの娘、自分の美貌や才能におごれて調子にのる女、わざとかと言わんばかりの天然ぶりを見せるなまえ。俺の経験と勘が言う限り、後者のなまえというのは特に危険だ。顔は俺好み、性格も良し。可もなく不可もなくな才能を持っている。天然。そこまで言うと俺のために生まれてきたのではないかと錯覚をするが、彼女、あの曹丕殿の妹である。
宮のはずれにある庭園で、透き通った池の下に重ねられた石畳を見ていたところだった。休憩場に腰掛け茶をすすっていると、何やら遠くから俺の名前を呼ぶ(女性の)声が聞こえた。何度も呼ばれるにつれて大きくなる声。やめろよ、恥ずかしいだろ。などと内心苦笑を浮かべつつ、俺はいまだ視線を池の下の石畳へと向けたままだった。視線の意味はとくにない。
「李典殿ー!」
だんだんと近くなる響き。右か左か、はたまた後ろか。宮内にいる将兵は早くこの声の主をとらえるべきだ。そう思うも、名前を呼ばれることにわずかな至福を感じているため本心ではないのは確かだ。
「あっ、李典殿見つけましたよー!」
「あー、見つかっちまったか」
「またこんなところでお茶ですか、李典殿?」
「ここだからお茶をするんだよ」
声の主でもあり、ずかずかと横に座り出すなまえは曹丕殿の妹君だ。誰にでも振りまく笑顔には裏がなく、性格も穏やかな彼女が俺は苦手だった。どうも警戒をしてしまうのだ。今こうして肩が触れ合うか触れ合わないかの距離で座られたのも、わざとか天然かで悩ませてくる。
「ここ、そんなに素敵ですか」と、なまえは俺に問いかけた。その言葉に頷くと、何やら彼女は辺りにある景色を見渡した。いくら曹丕殿の妹、曹操殿の娘と言ったって、彼女は政などには参加できないから常に後宮にいる。俺たち武将、いわゆる宮殿と里坊にしかいないようなやつとはほとんど関わりがないのだ。……と言ったところで、なまえはよくこちらへ遊びにくるから何もないのだが。
隣にいまだ押し黙っているなまえの方を一瞥した。偶然、目が合う。「あの」「おう」だからこそ、意識をしてしまうのか。
「私も、この景色のこと、今好きになりました!」
「……あー、と、一応理由を聞くが、なんでだ?」
嫌な予感と、反面高鳴る鼓動。女々しくて仕方がない。
「李典殿の見る景色は、好きでいたいんです」
そして、その予感は半分的中した。
曹丕殿の妹から(無自覚の)愛をいただくのは、正直恐ろしい。この先、なまえにも政略結婚の話などもたらされるだろうから、仮にそういう関係になっても嵐が待ち受けているに違いない。それなのに、だ。俺は別になまえはそういった立場にいるのが苦手なだけであって、本人のことはそうではない。むしろ、と、首をひねったところで考えをやめる。
「……恥ずかしくなってきただろうが」
「えっ、ごめんなさい?」
「はー……、分かってないな、あんた」
たまには、頑張るべきか。
「なまえ、今度俺と逢瀬……あ、いや、街に行こうぜ」
やっぱり、まだ時間は必要そうだ。
きょとんとしてこちらを見るなまえは、ほんの少し頬を染め、元気に頷いた。……この笑顔が、あと何回見られるやら。肩をすくませ、俺は茶を一気に飲み干した。奥に沈んだ茶葉がやけに苦く感じた。傍らにいるなまえはいまだ俺を見ている。
そうやって無意識に人の心をかき乱す女は、だから苦手なんだ。
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