▼ そこにきみがいますように
こつこつ、こつこつ
規則正しい足音に、私は不意に嬉しくなった。きっと、今彼が歩いているのは私の方にだろう。だんだんと近づく足音に、鼓動が圧迫された。
「なまえ殿、」
「やった」
「なんですか」
声の方へ振り返ると、やはり彼はいた。鍾会さま。今すこぶる嫌そうな表情を浮かべている。片眉が寄っているほどに。
廊下で喋るのだから、あまり世間話はできないが、こうやって恋人や上司も関係なさそうな場所で会うのもなかなか楽しい。
「鍾会さまが来るって分かってたから、当たって嬉しいの」
「はぁ、そうですか。ま、当然でしょう」
「む、恋人に対してその口の聞き方」
「こ、ここ恋人だからですよ! ……私の足音ぐらい分からなくてどうするんです、なまえ殿」
こほんと咳払いをして、鍾会さまは頬を赤く染めながら私の方をじろりと一瞥する。
腕を組んで、なんて態度だと思った。
「でも、鍾会さまは分かるの?」
「……ふん、当たり前でしょう? 癖も、どんな筆跡かも、わかるに決まっています」
「……ふふ、ありがとう。私もわかるよ、鍾会さまは今照れてるね」
「照れてなどっ……!」
顔をさらに赤くして怒鳴りつけてきた。少し驚いてしまって、肩を震わせると、彼は申し訳なさそうに私の手を包んでくれた。
跳ねた髪が、風になびいてふわふわと揺れている。何の意味があるのかは分からない、やたらと綺麗な後ろ髪も同じように。
手のひらから伝わる、彼らしい暖かくも冷たくもない温もりに、苦笑を浮かべた。
「そういえば、今日は何の用があったの?」
「……当ててみてくれます?」
「えっと、私に理由もなく会いにきたんじゃないの」
「ち、違う!」
なんだ、と残念がる。
鍾会さまは、一度何かを考えたが、意を決したのか私の方を見つめてきた。
男のくせに長いまつ毛が、震えている。
「なまえ殿が、寂しがっていたからですよ。この誉れ高き私に言わせないでください」
言ってきた言葉はあまりにもむちゃくちゃだったが、少し、ほんの少し嬉しい。逆に、なんだか彼に見抜かれたのが悔しかった。
「え、英才は関係ないって!」
「でも、まだまだじゃないですか。……ふん、これからも私のことを完璧に知っていけるよう、せいぜい努力してくださいよ」
「これからも?」
「な、何ですか!」
ころころと変わる表情に、自然と頬が緩んでしまう。鍾会さまは突然私の手から離れ、頬を包み込むと、顔が近づいてきた。廊下で、と覚悟をして目を閉じる。
その待ち侘びた柔らかい感触は、唇には届かず、額で終わったけれども。
それでも鼓動は早鐘をし続けていた。照れ臭そうに私から目を逸らす鍾会さまが、輝いて見える。そんな補正がかかっている訳ないのに。
なんだか恥ずかしい。ため息を落とすと、へなへなと彼の胸に顔を埋めた。
「ほんと、先輩としての威厳ないなあ」
「な、なな、何をしてるんです」
「鍾会さまっていい匂いするね」
「……全く、本当に先輩ですか。なまえ殿、この私をこれからも見習っていてくださいよ」
鍾会さまは、私の背中にゆっくりと腕を回してくれた。もちろんこんな光景を、他の人に見られているなんて知らずに。
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