▼ 子どもじみた永遠の内側で
すがすがしいほどの空を窓越しから仰ぎ、空気を肺にたっぷりと取り入れた。ほのかな墨の香りと、香り袋から漂う柑橘類の香りが鼻腔を刺激する。うん、今日はいい天気だ。最近は雨が続いていたので、すこし嬉しい。
何度目かの深呼吸のあと、私は宮内を少し歩こうと廊下へと出た。昨日よりも暖かい気候に胸が湧く。そうだ、今日はゆっくり街にでも出ようかな……。
「お、おい、そこのお前」
……できれば気づかないフリをして、このまま厩に向かおう。そう、いい感じ。声の主もしずかになった。
「この私が呼んでやっているのだ。早く振り向け」
我ながら可愛らしい野望も打ち砕かれ、私は肩を落として言葉通り振り向いた。呼んできた割りには高慢な態度をとっている鍾会殿がそこにはいた。人と会話をするというのに、髪をいじっている。頬が薄っすらと紅潮しているのが全くもって気に入らない。
「……どうかされましたか」
「やっと振り向いたな」
「すみません、考え事をしていて」
適当に言い訳をして、作り笑いでごまかす。
「ふん、お前にも考える脳があるのか」
「……」
その作り笑いさえも凍りつく言葉に拳を握り、私はそれでも口端を上げた。鍾会殿は人の表情など気にしない人だから、たぶん無表情でも「嬉しいです」やら「すごいです」やら言っておいたら喜ぶのだろう。
「ま、仕方がない。一度で反応をしなかったことを許してやろう」
「はぁ、ありがとうございます」
この麗らかな春の木漏れ日とは打って変わって冷たい言葉に、口角が震えた。
「それで、どうかされたんですか?」
早く会話を終えるために、用件だけを問いただす。鍾会殿は必要なことと自分語り以外はあまり喋らない方だ。その分要点はまとめやすく、頼りになるのはまさしくそうだ。ただ、口に出してしまえば彼が調子に乗るのでうまく言えない。
「あぁ」
と、私の質問に頷く鍾会殿は、言った途端に顔が本格的に赤くなり出した。うーん、嫌な予感。それでも聞かなければ分からないと言い聞かせ、私は彼の言葉を待った。
「……なまえは、好きなのだろう?」
嫌な予感が的中した気がした。
「えっと、何がか分かりません」
「なっ……」
私以上に驚いた鍾会殿。すぐさま斜め下に顔を俯かせ、ぶつぶつと自問自答を繰り出した。よく聞こえないけれど、唯一聞こえたのは「なるほど」と一人でに納得する言葉であった。なるほど、って何が?
私が好きなこと……、そうだ、今日みたいな小春日和に外に出て日頃の疲れを癒すことだ。もちろん上官や仲間である彼と語ることも好きである。今はすこし日にちが悪かった。すっかりお出掛けをする気が減ってきている。
「分からんと言って、わざわざ言わせようとはね」
「あの、言ってる意味がわかりません……」
いつもは詳しく、簡潔に説明をしてくれるというのに。やはり顔が赤いままの鍾会殿は、わずかに上ずった声で言い放った。
「お前が好きなのはこの鍾士季だ」と。何がおかしいって、「間違いない」と付け足したことだ。わけがわからない。この言葉以外に当てはまる言葉はこの世にないだろう。
「あの、どういうことですか……」
率直な疑問をぶつけると、自分まで恥ずかしくなってきた。そうして冷たい反応をしつつ、私が鍾会殿のことを好きだという噂が彼本人に届いた事実を憎む。どうやって届いたのか。いや、そもそも誰が言ったのか。
私だって鍾会殿のことを嫌いとは言ってはいないが、好きとも言っていない。信頼できる仲間とは言っている。それを誤解する人物といえば……。
「司馬昭殿もたまには有意義な情報をくれるものだな」
「司馬昭さまからの情報ですか」
なるほど。盛大に納得した反面、あとで元姫殿に旦那への抗議をしに行くべきか悩んだ。これは困った。すっかり鍾会殿は信用しきっている。嫌がっていないところを見る限り、ほんの少し、本当に少しだけ嬉しく思う。
「ま、お前には見る目があることがわかったよ。むしろ、私などお前にはすこしもったいないかもしれないな」
鍾会殿は肩を竦ませ、ふふんと鼻で笑った。かなり上機嫌のようだ。本気で受け止めてくれているのなら、もしかしてと誤解してしまうほどに。
ぐらりと何なのか分からない気持ちに傾きかけたものの、私は首を振った。
「いえ、誤解ですって」
「ふ、照れ隠しもまた可愛いものだ」
「かっ、可愛いって……」
とっさに頬を抑え、照れていたのかと不安になった。先ほどから鍾会殿の顔をうまく見られないのは確かだけど、そんな、まさか。
「ま、頑張ってくれたまえよ」
ずかずかと歩いていく鍾会殿は私に背を向ける。どっと疲れたが、ここで行かせるわけにはいかない。噂が広がる前に早く止めないと。そんな使命感に駆られて、私は大きな声で彼の名を呼んだ。
「鍾会殿!」
「なんだ?」
あ、待って言いにくい。振り向いたときの表情が、期待を滲ませた子供のような顔だったなんて。おまけに頬だけでなく耳まで真っ赤で、私までつい意識をしてしまう。彼の言葉に丸め込まれては駄目、だけど、いいかもしれない。
「……顔、真っ赤ですよ」
とりあえず掛ける言葉もわからなくなり、近づいてきた鍾会殿にそう告げた。すると、鍾会殿は私の頬に触れ、柔らかい笑みを浮かべた。
「お前ほどではない」
その言葉だけを残した鍾会殿は、私の元からそそくさと去って行ってしまった。私は無心で彼の背姿を見つめていた。どうしてこうなってしまったのか。好きじゃない人に言われたはずなのに。すこしも行きたくなくなった街に想いを馳せ、私はぐったりとしたまま室内へと足を引きずらせた。彼に触れられた頬は、いまだ熱い。
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