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暗い道を抜けて、体中から感じる疲労感に耐えながらこじんまりとしたマンションの階段をのぼるとき。たくさんの家庭の様子が浮かぶ美味しそうな匂いにわくわくして、とくに我が家から漂うのはひときわ美味しそうで、暖かい匂いだと自慢したくなる。帰ってからの、今日も疲れた、は禁句。帰ってきたら本当のじぶんとして、奉先さんの作ったご飯を食べて、お風呂にじっくり入り心を休めるのだ。いつも帰ってきたら、この家はとてつもない光に包まれているのだから。か、とコンクリートの地面を叩くように玄関前で足を踏み入れる。
「ただいまー」
自然と跳ねるような口調になり、おかしいなと笑いながら戸を締めて靴を脱ぐ。キッチンの方から聞こえる水を流す音がきゅっと止まると、慌ただしい足音をたてて彼は出迎えてくれた。手にさいばしを持っている。
「よく帰った。遅かったではないか、なまえ」
「うん、少し電車が遅れてて」
「暖房ついてる?」ときくと、どうやら奉先さんには聞こえていないようだった。とりあえず上がり込もうとすると、前に彼が立ちはだかる。
「おい、靴はしっかりと揃えろといつも言っているだろう!」
「あ、ごめんなさい」
彼の怒声はなかなか響く。雷親父以上だと思っている。でも、怒られると「これが奉先だ」と嬉しくなってしまう。もちろん、怒っていないときも奉先さんは奉先さんなのだけれど、こういう私の品行を整えるためだとか、善悪を靴を揃えると、コートを脱ぐ。奉先さんは既に台所へ戻って行ってしまっていた。
適当にコートをクローゼットに押し込み、普段着へ着替えるとさっそく奉先さんのいるリビングへ向かった。
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