なまえが風邪をひいた。
ちょうど、俺と彼女がもめていたときのことだ。喧嘩というほどでもなく、どちらかと言うと彼女が泣いていただけだ。やけにしつこく泣くものだから、とうとうおかしくなったかと思ったが、風邪が原因だったのかもしれない。
「なまえ、大丈夫か」
住まわせてもらってる以上、相手には尽くさなければならない。なまえの額のおしぼりを変え、先ほどまで使っていたもので首元や頬の汗を拭う。なまえはしゃがれた声で「大丈夫」と言い、無理に微笑んだ。
「何か食えるか」
なまえは首を横に振る。だからと言って、食べないわけにもいかない。説明書を見る限り薬は食後でなくてはならないそうだ。果物、と思ったが、ここは少し歩けば桃があるような国でもない。店に買いに行くにも、情けないことに地理がわからない。
ち、と舌打ちをして、冷蔵庫の中を覗きに行った。だてにここに住んでいるわけではない。一応、火の扱いや鍋類の使い方は教えてもらっている。まれに子上が風邪をひくとき、あいつは何を食べていたか。……穀類を茹でたものだ。
そう考えるうちにも、なまえの悲惨な咳き込む声が聞こえる。もう一度舌打ちをし、適当に記憶を頼りに鍋に水を流した。
▼△▼
「……これは、」
炊いてあった米を鍋に放り、調味料を目分量で入れてみたのだが、いささか臭い。卵と、砂糖、――それと、食卓でよく見るケチャップだ。粥を作ったつもりだったが、見た目がおどろおどろしい。赤いだしが何よりもの原因だろう。
とりあえず味見をしてみる。なまえと俺は味覚がほとんど合わないため、まずいと思ったものはなまえにとってうまいかもしれない。れんげにすくい、一口。
「ぐっ……」
これをなまえに食べさせるのか。いや、いい。とにかく口に入れさせ、薬を飲んでもらわねば今後の生活が困る。一日でも早く治ってもらいたいものだ。
「なまえ、起きろ」
「……え、なんですか」
手にある、土鍋をじろじろと見ている。
「……粥だ」
「えぇ……」
「クク、汚い声だな」
「ひどい……」
ひしゃげた蛙のような声で、なまえは唸った。唸ったが、それでも起き上がろうとしている。顔はまだ赤いが、汗は止まっているようだった。
「あの、ありがとうございました」
「礼を言うのはまだだ。これを食え」
「賈充さんがそれを作ったおかげで、光熱費がかさばったじゃないですか、おまけに食べたくないですよ」
「蛙の合唱か? うまいな」
「うわ、家から出てってください」
ベッドに腰掛け、すこし冷めた粥をすくう。無理やり口元に押し当てると、なまえはしぶしぶ口を開いた。その前にしてくる懇願の瞳は、今まで見た表情で一番ましだと思った。
「うっ」
口元を押さえ、なまえは体を震わせる。なるほど、やはり。
「まずかったか」
やはり、頷くのだな。
頑張って半分は食べ切り、なまえはいそいで薬を飲んだ。こんなものを食べたらウイルスが嫌でも逃げる、とのことだ。もう一口食べさせようとしたら、なまえが泣きながら嫌がったため残りの粥は台所へ持って行った。
潰れた蛙の声が、押された蛙の声くらいには良くなったなまえの体調。冗談を言えるくらいだった。彼女はおしぼりを額だけでなく目にもあて、すこやかに眠っている。何かするわけでなく、傍らの椅子に腰掛けてその様子を見つめた。
誰かの看病をするというのは初めてのことだった。子上の看病はあの家族か、元姫がしている。逆も然り。俺は看病をされるということがない。風邪をひかない、ということもあるが、かかったところで室には誰も入らせないのだ。
「賈充さん……」
蛙が、俺の名を呼んだ。
「どうした」
「あ、そこにいましたか……」
そう言って、なまえは手をさまよわせる。何があったのかとその手に触れると、彼女はなんと、俺の手をきつく握るのだった。しかし、そのことよりもだ。手を握られて、抵抗をしない自分に驚いた。驚きと、怒り、諦め。
「ふ、冷たいか」
「はい、冷たくて気持ちいいです」
口元がほころんでいるのを見る限り、よほど嬉しいそうだ。もう一つ空いた手で、腰をかがめて彼女の頬に触れた。熱い。しっとりと汗ばんだ髪を耳にかけ、目尻に指を這わす。
「今日は、いきなり泣いてごめんなさい」
そのとき、なまえはぽつりと呟いた。
「賈充さんがあまりにも元のお家に帰りたがるから、悲しくて」
「……お前は何も悪くない」
「どうして、生まれてくる世界が違ったんでしょうね」
「……なまえ」
心臓をきつく締め付ける感情に、ぞわりと身体中が粟立った。まさか。自然と喉を鳴らし、なまえの頬にあてる手を離した。「待っていろ」とだけ残し、彼女の額にかかるおしぼりを奪い取った。「あ」なんて、玩具をとられた子供のように無抵抗な声を漏らすものだ。枯れた声でなければさらにそれらしくなっていただろう。
机の上に置いていた桶に、おしぼりを浸す。冷や水を染み込ませ、充分に絞ると元の場所へと戻った。すぐに彼女の熱を冷まさせようと思ってだ。
「……なんだ」
額にそれを乗せたから、眠るのだと思っていた。しかし、彼女は一向にこちらを見つめていた。黒い瞳には小さな光が宿っていて、あまりにも眩しい。その瞳は、俺の問いかけによって細くなる。
「なんだか、嬉しくて。看病してもらうのって」
笑ったまま、なまえは目を閉じた。
彼女は俺がここに来るまではどういった生活をしていたのだろうか。興味はない。さしずめ、今の生活から俺がいないだけだろう。なまえはよく一人で喋る女だ。善意の押し付け、ありがた迷惑。どれも当てはまるほどに馴れ馴れしい。
「……さみしかったのか」
なまえはわずかな間を置いて、頷いた。恥ずかしいのか、また涙が出そうになっているのかは分からないが、寝返り、こちらへ背を向ける。
「だとしたら、とうぶんは帰れんな」
もとより、帰る方法などほとほと調べる気もないが。
なまえはやがて寝息をたてはじめる。乱れた掛け布団を肩までかけてやった。震えるまつげをとらえ、訪れる感情の波に苛まれてしまった。
どうしようもなくなり、頬に触れると、どうやら、まだなまえの熱があるようだった。
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