短編 | ナノ

 01

淵師、と呼ばれて、咄嗟に振り返ると、やけに色素の薄い髪を陽光に反射させ光らせる男性が視界に映った。年齢不詳ながらも、髪の下の顔からは美しい微笑を見せている男性。これは誰だ、と思い、私は首を傾げた。
淵師? と、今度は疑問符を語尾につけて名前を呼ばれる。待って、待って待って。思い出せそうなんだ。
「はは、これは残念」と、男性は苦笑した(その顔までも美しい)。待ってと思っているのに、男性は私の方へ手を差し出してくる。その手を渋々とると、なんと、男性は私の指先に口付けをしてきた。あまりにも唐突なものだから、口が開閉を繰り返して、私は今阿呆丸出しの顔をしているに違いない。

「あれほど愛し合ったというのに、本当に私のことをちっとも覚えてないんだね?」
「……すみません」
「十年前、あなたの恋人だったのだけれど」

十年前、とは。こんな美男子と一度でも愛を育みあったというなら、私は絶対忘れないと思うのだ。もしや人違いではないか。十年前の記憶など、よほど印象的だったか大事な思い出ではない限り覚えていられない。

「人違いでは?」と、提案するように言う。男性は顔を横に振った。

「淵師、と呼んだら反応しただろう?」
「あ、確かに」
「本当にあなたは変わらないね。うん、とても綺麗になって、なんだかあのときの恋心が蘇りそうだよ」
「…………もしかして」

その、馬鹿みたいに甘い言葉を軽々と吐く姿は、覚えがある。「郭嘉殿」と、名前を絞り出して放つと、彼は、ゆるやかに微笑み頷いた。

「久し振りだね、淵師」
「かく、郭嘉殿なんですか?」

いざ、答えを見つけ出すと確かに彼は郭嘉殿そのものだった。特徴的な柔らかい物腰に、穏やかな声と瞳……、髪からは常に様々な女性の香りが漂い、私は十年前にいつも嫉妬をしていたのだ。郭嘉殿は私の黒の髪を撫でて、そっと微笑む。

「本当に、会いたかった」郭嘉殿は夢のような言葉を平々凡々な私に囁いた。

「最近はちゃんと女性に真剣に付き合っているんですか?」
「おや、初めての質問が女性のこととは、これは期待してもよろしいのだね」
「どうぞ、ご想像にお任せします」
「はは、手厳しい」

郭嘉殿は手をひらひらと振り、眉を下げる。行動一つに乱れがなく、いちいち見世物のように空間を作り出すのだ。彼はとりあえず、と私の手を引いて街の飯店へ連れ込んでくれた。
椅子に向かい合うように腰掛け、一息つくと、郭嘉殿は私を見つめた。指先から、髪、瞳の奥まで覗かれるようだった。「年をとったな」などと思われていないだろうか。心配になってくる。

「あの、郭嘉殿」
「あぁ、すまないね。つい、見惚れてしまったんだ」
「私なんて……あの頃みたいに若くもありません」
「それは違うな。女性は今が華だろうね。いや、あなたなら……いつでも華か」

はは、と冗談交じりに笑う彼を見て、今の言葉は冗談なのか本気なのか、むすっとしながら考えた。いつまで経っても変わらない軽い態度に、女性に囁く甘い言葉、きっと郭嘉殿だから許されるんだ。
十年前に郭嘉殿と知り合って、気付けば彼は曹操殿の元に、私は適当に国を渡り歩く放浪人になってしまった。そのせいか道はすれ違って、今に至る。別れの言葉は言ってはいないのだ。本当に自然と会わなくなったというか。
郭嘉殿をじっと見ていると、彼は少し笑みを深め、私の手を上から包み込んだ。

「これでも、いつも淵師を想っていたんだよ」
「……そう、ですか。あの、今もまだ曹操殿の元で献策をなさってるんですか?」
「話を逸らすのはいかがなものかな、淵師」
「……えっと、その、どう返事をしたらいいか分からなくて」

「あまりにも、突然だから」と、瞳を俯かせ言い放った。
郭嘉殿は驚いた表情を見せると、慈しむように私の手の甲を撫でる。撫でながら、その手を顔の方へ導くともう一度口づけを落とした。偶然饅頭を運んできたあどけない娘が小さく悲鳴をあげ、そそくさと饅頭を置いて去ったのはきっと郭嘉殿を狙っていたからか、それともこんな場所で不埒だと言いたいからだろうか。どちらにせよ、理由はわからないし、今こうやって柔らかい唇が私のものになってるほうが信じられない。

「郭嘉殿、冗談が過ぎてます、から」
「あぁ、そうだね」
「離してください」
「本当に?」

ぱっと手が自由になり、私はさっと引く。
十年前の無邪気だった自分が蘇りそうだった。無邪気に、郭嘉殿に会いに行って、このまま婚姻を結ぶんだと信じていた私が。郭嘉殿はちっとも変わっていなくて、むしろもっと素敵な人になったというのに、自分だけが一人で歳をとった気分だ。
そうやって心を責めていると、胸が痛くなる。そんな私の心中を読み取ったのか、郭嘉殿は私の手に何度も触れた。一度手を引かせても、ゆるやかに郭嘉殿の手の内に戻ってしまう。暖かい指先が私の親指の付け根から、一本いっぽん触れていくと、絡み合った。その瞬間、胸が跳ね上がってしまった。

「こうやって再会を果たして、恋をして、これが運命じゃないというなら、私には一生妻ができないだろう」
「郭嘉、殿」
「やっと会えたんだ。もう、離す理由がどこにもないね」

郭嘉殿がそう言うと、私は堕落していく感じがした。
すっかり心が彼に従順していて、もう逆らう気力もなくしてしまった。

「さて、再会の記念にさらってもよろしいかな?」

私は俯き、顔をあげると、郭嘉殿に「よろしくお願いしますね」とほほ笑んだ。




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