短編 | ナノ

 01

するりと風が抜ける。頬に毛先が触れてくすぐったい。肩を竦ませると髪の毛が元の定位置に戻った。一瞬気が散ったけれども、これで準備万端。私は真っ直ぐ前を見る。

群青色の空には散ずる雲が点々と見られた。天気は万端、あとは進撃の準備が来ればいい。
私たちは今、長江にて呉、蜀の連合軍と対峙していた。後の赤壁の戦いである。
曹操様が誇る船団は圧倒的数で、敵を畏怖に陥れていた。だからと言って、官渡の戦いの袁紹の立場にはならないはずだ。

多分、と自信がないのには理由がある。あのとき助け舟を出してくれた郭嘉殿はこの世を既に発ってしまった。曹操様は、典韋殿と曹昂様が亡くなったとき深く沈んだが、彼らの意志を継ぎ、覇道を歩むと決めたのだ。そのとき彼に絶対的自信をつけたのは郭嘉殿だった。
曹操様は、異様に焦っているように見られる。賈ク殿は進言をした。まだ、孫権を討つには早いと。しかしそれを無視し、ここにいるのだ。



もし、負けたら私たちは天下から遠退いてしまう。できることなら、負けることはないと信じたい。例え許チョ殿が不穏な風が吹いていると言っても、ここまで来たら撤退などできないのだ。

その、もしが本当になったら。




「曹操さま」
「……淵師、か。よい、入れ」

長江の地から撤退をし、戦後の片付けを済ました頃。宵に入るときだった。
私は曹操さまの元へ足を運んでいた。

赤壁の戦いは私たちの敗北で終わりを告げる。東南の風を吹かれ船団は焼かれた。疫病や兵糧の尽きもあり、敗北はおろか軍の士気も将兵の数も、あっという間に減ってしまった。行く先は焦土作戦で、私たちは休む間もなかったのだ。
相手も家族や国ありきの戦いなのは分かっている。分かっている、のに。悔しくてたまらなかった。
曹操さまが漏らした、郭嘉がいたらどうなっていたのだという言葉も、ぼろぼろの将兵らに深く刺さった。確かに、そうだ。

「曹丕さまに上質の酒を頂きまして。あなたに是非、と」
「ふむ、それは興味深い。一つ頂こう」

長椅子に腰掛け、月を見ていた曹操さまは立ち上がる。来客用の机を挟み、向かい合わせで椅子に腰掛けた。固く冷たい椅子。
盆の上に乗せていた觚(こ)に、なみなみと酒を注ぐ。頭を眩ませるほどの甘く芳醇な香りが鼻腔を通った。
小さな酒樽ほどの量だったが、これが大きな酒樽一杯に入っていたら、きっと香りだけで倒れるだろう。

「……これほどの上質な酒なら、あの日散った将兵らに翳してやりたいものよ」
「……そうですね」
「淵師に問おう。この曹孟徳は、どこで落ち目にあるようになったのか、と」

彼が觚を揺らすと、赤黒い酒が揺れる。それが、あの時の赤壁の地に見た赤い海を彷彿とさせた。胸に込み上げる吐き気を押し込み、私はただ自分の意見を述べる。

「私たちの力不足だったのでしょう。郭嘉殿が生きておられたら、きっとこのようなことには……」
「賈クにも酷いことをしたものよ。あやつの進言を真っ当に聞いておればと、日に日に後悔が募る」
「惜しい人を亡くしましたね。私たち」

酒を一口含むと、ぴり、と私の舌を刺激した。

「……わしは、生きておるか」
「生きておられます」
「……ふ、そうであるな。なに、聞いただけよ。一度の敗戦でわしは死なぬ」
「そうですね。曹操さまは生きておりますもの、もし、あの場であなた様が亡くなられたら、曹孟徳という男はそれだけということ」
「なかなか物を言う女だ。抱くには惜しい」
「ええ」

また一口。刺激が、程よい。曹操さまもこの甘美な味に酔い痴れていたいようだった。いっとき見えた闇さえも、打ち消したいよう。
彼には支えてくれる親衛隊が一人しかいない。彼をよく理解してくれる将兵らはたくさんいる。支えと理解は違うものだ。後者に曹操さまは気休めるかと言えば、難しい。

「私も、あなた様の親衛隊になりたいものです」
「お主は女でよかろう。美しく舞う様も、散るやもしれぬ焦燥感も、似合わぬ。着飾り、紅を引き、彩られるのが淵師を引き立てる」
「ご冗談がお好きで」

ごくり、と喉に冷たい水が流れる。


「淵師は、抱かぬ」
「人妻じゃありませんもの」
「ふ、それもあるな。しかし、わしはお主に見透かされてそうで怖いのだ。その両眼は己にも理解できんものを見通す。抱いてみせようものなら、牙を剥かれるだろう」

そう言って、曹操さまは一気に酒を飲み干してしまった。酌をする。彼は不敵な微笑を浮かべるだけだった。
互いの杯を交わし、これを最後と喉に流し込んだ。赤黒い液体が、流れている。はぁ、と甘い息を吐き、空の觚を見つめた。

やはり、私にはこの酒が合わない。


(僕らに似合いのバッドエンド)

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