▼ 01
ふんふーん、と鼻歌が聴こえる。
その方向は許昌に構える居城の庭のようだ。春風が私の髪を揺らす。香る花の匂いが私の鼻腔を刺激した。
誘われるように庭に出ると、見慣れた彼の姿が目に入る。
「李典殿ー?」
名前を呼んでみた。
それでもまだ気付いていない。何をしているのだろう。木陰に屈んで、もぞもぞとしている。
わざと音を立てて土を踏みしめた。彼は気付かない。
「りーてん殿!」
「うわっ!? なんてな、驚くと思ったかー?」
「きゃあっ」
がさっと勢いよく押し倒される。
李典殿のふわふわとした髪の毛が当たってくすぐったい。なんて、それよりも。
「お昼から何をしてるんですか、もう!」
「わーりぃ、悪い。勘だと、今日は何してもいい気がしたんだよな、俺」
「どこ触ってるんですか!」
「いでっ」
ごつんと殴ってやると、李典殿はそっと身を引く。お互い庭に座りながら、向かい合った。
彼の口は尖っていて、なんだか可愛い。
「淵師って軍師殿の割には、力強いよな」
「李典殿が変なことをしても大丈夫なようにです」
「駄目だって! この俺に守られるのが一番だろ?」
ぐい、と体を近づけてくる。
満面の笑みに、幼さの残る八重歯。胸がきゅうと締め付けられた。
落ちていってるのがわかる。李典殿に。
「顔真っ赤だぜ、淵師」
「……李典殿だって」
「え、まじかよ! うっわ、俺ってば肝心なところを……」
そう言って慌てて顔を俯かせる。
「で、ですが、その……そんなところが、可愛いですから」
私は彼の肩を抑えて、そう言い放つ。
李典殿は顔を上げると、さらに赤くして恥ずかしそうにしていた。
その表情がたまらなく愛しくて、面白くて、私は笑う。
「笑った罰だからな、淵師」
李典殿はこちらを目だけでちらりと見やると、私の肩を掴み、引き寄せた。そのまま口付けをされる。
こんな、庭で、しかも真昼から。身をよじって離れようと考えたが、そんな考えはすぐに打ち消し、彼に身を委ねた。
長い間堪能して、互いの目を見つめ合いながら離れる。
「李典、殿……」
「淵師、もう一回言いよな」
普段の明るい表情から打って変わって、あまりに大人びた表情を浮かべるものだから、目が離せない。彼の言葉に、こくりと頷いてしまう。
まるで獣が餌を見つけたように、口付けを交わした。視線だけで、庭にある石階段を見る。誰もいない。
いや、いたとしても、今は取り込み中だと判断して無視をするだろう。
「淵師とずっと一緒に……あー、その……こうやって過ごしたいと思う」
接吻を終えると、互いに身を寄せ合う。
春風と、さんさんと照りつける日差し、そして彼の体温が心地よい。
彼の首に腕を回し、彼の手は私の背中を抱きしめている。
「私もです。そうだ、今日は李典殿の百発百中の勘では、私に何してもいい日なんですよ?」
「お、言ったなー? 今日あんたに何をしでかすか分からないぜ、俺」
「げんこつで済まされてくださいよー」
身を離すと、李典殿は立ち上がった。私も並んで立つと、彼は照れ臭そうに私の手を握ってくれる。
触れていない手で、己の髪を撫でている李典殿。頬が緩んでしまう。
「さっき言ったけどよ、あんたは俺に守られてるのが一番だと思うぜ」
「李典殿……」
顔は見えないが、前に一歩進む李典殿はきっと顔を赤くしているに違いない。
私まで気恥ずかしくなる。
「……よし、部屋に戻るか!」
「はい!」
答えると、彼は私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。
首に巻いてる襟巻きとか、彼のくるくるとした髪型とか、後ろからでも楽しくなる。笑みがこぼれてしまい、それに気づいた李典殿は早く歩いてしまった。
すぐ、戻るのだけれど。
「あぁもう、部屋に誘ったけど今昼だろうが、俺〜」
「どうしました?」
「何でもない!」
(伸びて寄り添う影二つ)
影だけでも、距離は無しにする。
いつかこうなれるようにと。
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