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ぼんやりとした脳内が、だんだん瞼に意識を集中していく。そんな、不思議な感じに包まれながら、私は瞼を開いた。
屋根のある休憩場で、私は横になっていたらしい。ひんやりとした床に、ふかふかのタオルが体の上に被せてあった。
横に手を伸ばすと、ぱしっと手首が掴まれる。その方向へ顔を曲げると、ぼんやりとだけど制服を着た凌統がこっちを見ていた。
持っていた本を椅子に置き、床に手をついて私の顔に近付く。視界いっぱいに、まるで逆さまの世界にいるような彼がいる。不意に胸の鼓動がとても早くなった。
「おはよう」
「……ごめん、あたし」
「気にすんなっての。真夏日に、無理やりプール入れちゃった俺も悪かったわけだし。淵師ってすごい恥ずかしがり屋なんだったよね」
「うーん……あたしも直そうとは思うんだけどなぁ。あんたの前だとどうも、恥ずかしくて」
「ふぅん、俺の前だと、か」
おでこにキスを落とされる。彼の鼻の頭が私の眉間に当たって少しくすぐったい。ふふ、と笑うと凌統は愛おしげに唇を目尻におろし、わざとリップ音を立てて、そっと離れた。
「さ、帰ろうか。もう昼になるよ」
そう言いながら、凌統は立ち上がる。
「うん。あー、と服着替えたらすぐ行くわね」
小説を隣におかれる鞄に詰め込むのを見ながら、そう言った。凌統は小さく微笑んで、
「おけ。待ってる。あ、車で俺ん家まで送ってくれるんでしょう?」
と、悪戯っぽく言う。
「今日徒歩?」
パーカーの裾を伸ばしながら聞いた。
一緒に階段を降りて、更衣室まで向かう。
「チャリって言ったらどうするっての」
「えーそれじゃ、あたし明日あんたの家行かなきゃ駄目じゃん」
「そうだね」
「ま、仕方ないわ。凌統には迷惑かけたものね」
肩を竦ませ、すぐに着いた更衣室の前で立つ。凌統に待ってて、と残すと彼は頷いた。それを見て、私は更衣室に入ると、堂々と着替え始めた。
* * *
「お待たせ。ごめんね」
壁にもたれかかる凌統は、さっきの小説をまた読んでいた。私に気付くと鞄に突っ込み、そっと肩を引かれる。
「何読んでたの?」
「ん? あぁ、夏目漱石の『夢十夜』ってやつ」
「へぇ! なんか珍しいじゃない。あの、それに……かっこよかった、って思った」
「へぇ、淵師がそう思うならあんたの前でだけ本を読もうかな。あ、なんなら朗読してあげるっての」
「ほらほら調子乗らないの」
優しく小突いて、彼にもっと身を寄せる。学園長にばれたら、たった1人しか部員がいない水泳部は廃部させられる、と聞いた。彼の息子の孫策に。
でもきっと、あの家族は仲睦まじいことだから家族で食事にでも行ってるだろう。そう思い、職員用の駐車場へ到着した。
「俺もいつかあんたを隣に乗せて運転してみたいねぇ」
「期待して待っとくわね」
キーを通して、扉を開く。凌統は補助席に座り、私も運転席に座った。
帰ろうと思ってハンドルを持った途端、凌統がその前に手を伸ばす。
「な、明日迎えに来てもらうのも大変だろうし、泊まってもいいんだぜ?」
「そ、それ、は」
「父さんも今日はいないし。料理は苦手なもんでね」
「あたしの料理食べて明日腹下してもしらないから」
「そしたらあんたに看病してもらうっつの」
ハンドルを持とうとする手の甲にキスを落とした凌統は、勝気に笑う。かっこいいなんて思う自分は、相当惚気ているみたいだ。とりあえず、彼の家に泊まることになったとはいえ、私には緊張感しかなかった。
横を少し見てやると、凌統はにへらと笑ってこっちを見ている。その笑顔に少しむかつきながらも、静かにアクセルを踏んだ。
(鼓動が求める正しい揺らぎ)
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