戯言スピーカー | ナノ



 

「ここが画材屋か」

今はもう鼓動はおさまり、淵師も普段の表情でいる。彼女の方を見て問うと、淵師は頷いた。店の前の看板の元へ歩くと、俺もついていく。少し屈んで、何を見ているのかと思えば、どうやら特売のお知らせのようだ。それがなんだかおかしくて、淵師に理想を持っていたからこそ、人間らしいと思ってしまう。

「ま、入ってみるか」
「うん」

ちりんちりんと鳴る鈴の音と共に入店した。狭い店内に並ぶ画材。絵の具一本がとてつもなく高い。俺が学生の頃使っていた24色色鉛筆には今も残っているが、確か5千円もしなかったはずだ。ぎょっとしてその場で止まってしまう。英語の絵の具とか、紙とか、もはや別世界だ。
行き慣れたコンビニが普通なんだよな、そうだ、おかしいのは画材屋だけに違いない。しかし淵師は当たり前のように、足りない絵の具や筆をとっていく。あれ、これは俺が奢った方がいいのか。画材一つ一つの値札は見るのが恐ろしい。

「それにしても、すごい店だな……」
「あー、はは。でも、慣れたら居心地がいいんだよ」
「だな。俺も絵ってのに触れてみたくなったぜ」
「好きなんだったら描けると思う。生まれ持った百発百中の勘もあるしね」
「おいおい、それじゃあ意味ねえんだって。勘もだけど、そのー、センスってやつ? で描きたいんだよな」

淵師が紙を厳選する横で俺はそう言った。
勘で描いたら確かに俺が得する絵を描けるかもしれないが、そんなものを描きたいのではない。必死に思考を巡らして、ある選択をして一つ筆を引く。その瞬間を味わってみたいのだ。もちろん経験はないから、失敗ばかりに違いないが。
彼女は一瞬暗い表情を見せたが、すぐに笑顔を繕う。

「応援してる」

そう言って、淵師はレジへ商品を運んだ。
何かまずいことを言ったのだろうか、嫌な感じがしている。とりあえずついていき、横に並んだ。ちらりと一瞥をしたものの、特に変わった様子はない。
疑問が浮かんだが、表情だけ見るとなんともなさそうだ。しかし、どうも胸に突っかかるしこりは取れない。

「よし、私の買い物は完了っと」
「あ、あぁ。んー、じゃあ次どこ行くかな。なんとなく映画館がいいって思うぜ」
「え、映画館? いいけど、随分と突然だね」
「気にすんなって」

淵師と喋ると、そんな不安は不思議と消える。
正直言えば気になる映画を彼女と見たかっただけだ。こうも乗ってくれるとは予想外だった。彼女が持つ荷物を見て、手を差し出す。

「持つよ」
「そんな、悪いって……」
「かっこつけさせろって、な?」

多少強引であったが、淵師は渋々渡してくれた。
ほんとうにいいの、と何度も聞いてきたが、全て平気だと返事をする。最終的に何も聞かなくなったが、代わりに必死に話してくれた。絵のこと以外にも、教授になった理由など。俺が何か話せば親身に聞いてくれる。思ったが、俺たちにはなんの接点もない。ただ淵師に惹かれていて、彼女は俺の教授。

(……そういえば淵師って年上なのか)

あまり喋っていて違和感がないのは、自分の適応能力なのか。淵師の話す種が大人っぽくないからか。

きっと、両方だ。


 * * *


「カップル割引でお願いします」
「……お願い、します」

ぼそりと同じように淵師も言う。
映画館についたのはいいものの、いざ見たい映画を決めてチケットを買うまではよかったのだ。店員が「カップルさまですと、割引になります」と言うまでは。お得な方がいいではないか。俺は頷いた。
しかし、どうも彼女はあまり乗り気ではない。肘で小突くと、びくりと肩が震えあがっていた。

「なんだよ、嫌か?」
「い、嫌じゃない」
「だったら我慢してくれ。大丈夫、ばれないから」

淵師にチケットを渡し、十五分後に開場することを言う。
ぼんやりとしている彼女は、顔を赤く染めていた。それは暗闇の映画館で橙色の光が灯されているからなのか、分からない。時間がくるまでは、ただ淵師を見ていた。やっぱり好きだと痛感する。今から見る物がアクションでなければ雰囲気は最高。
ふとしたときに手を握ることが余裕でできる。生憎アクションのため、どういうときに手を握れようか。垣間見えるラブシーンか。駄目だ、集中しているのに邪魔をできない。

「李典さん」
「ん?」
「そ、そんなに見ないで」
「あっ」

改めて、立ち尽くしたまま淵師が何か言おうとしてるのを無視し、じっと見つめていたことに気付いた。さらに距離が生まれる。
ほんと何やっても空回りばかりだ、と肩を落とした。今日何か進展するつもりだろう。不甲斐ないと責める。

「……そろそろ開場時間だね、行こうか」

その言葉で、俺たちは上映館へ向かった。