画家と言うか、絵師と言うのはたまにスランプが来るらしい。俺にはそのスランプとやらは来たことがない。たまに、今日の髪型は外ハネが酷いだとか思ってむかついたりはするけど、それを淵師に言ったら「スランプじゃなくて寝癖だよ」と一蹴。 今日も、淵師がいるであろうアトリエへやって来ていた。 歩くにつれて足取りは軽い。開きっぱなしの扉を抜けると、すぐに大きなイーゼルに掛けられたキャンバスが見える。 しかし、淵師の姿はなかった。ただ、普段開けていないベランダへの扉が開いているだけで。 「淵師、いるかー?」 「ん、いるよ」 ざわ、と嫌な予感がした。 ひゅうひゅうと吹き荒ぶ風に髪をなびかせる淵師が立っている。遠くの景色をぼんやりと見つめていた。俺からみたら後ろ姿しか見えないが、それだけで十分可愛くて仕方ない。 そっと背後に近づき、淵師の肩に触れた。 「どうしたんだよ、って、おわっ。こんなに冷えて、お前馬鹿か!」 ニットの服は、すっかり冷たくなっている。指先が霜焼けになりそうだ。 淵師は驚いて俺の方へ振り向くと、顔と目を真っ赤にしているのがわかる。 「ご、ごめん」 「あっ、いや、俺こそ驚いちまって……馬鹿じゃねえから、あんた」 淵師の髪に触ると、髪まで冷たい。 「ううん、李典さんの言うことは正しいから。戻るね」 その俺の手を払いのけて、淵師はアトリエへ戻る。確かに俺は今、彼女が目を腫らしているのを見たし、何よりそれを隠そうとしていることは分かった。 後を追い、普段通りに絵を描こうとする淵師の腕を掴む。 何やってんだ、俺。と心の中で苦笑を浮かべた。すっかり不安そうに見られているではないか。 ぱっと離し、意気地なしの俺は「何でもねえ」と言って己の髪を撫でた。 疑問に首を傾げたが、淵師は椅子に腰掛け、筆をとる。俺はそんな彼女がよく見えるところへ座った。 置かれたCDをプレーヤーに入れ再生させる。流れる音楽は、今回はエレクトロニカではなく、ジャズだった。 「……なあ、淵師」 ゆったりと流れる音楽は案外心地よい。 彼女の名前を呼んでみると、絵を描いたまま「どうしたの?」と返事をしてくれた。 何を喋ろうか。泣いてる理由はさすがに失礼かもしれない。せめて、聞くならムードってのが必要だと思う。 「今度、画材屋だったか、そこに行こうぜ」 「えぇ?」 「なんだよ、嫌なのか?」 「う、ううん。嫌じゃないけど、李典さんこそ、本当にいいの?」 「誘ったのは俺からだろ、ま、気にすんな」 威張って言ってしまった。 淵師は振り向き、肩を竦ませると、俺に向かって笑い頷く。 「不思議な人」 「じゃ、約束」 「うん」 淵師はまた顔を絵に戻すと、一旦手を休ませようと、筆を置いた。遠くから見た方がいい、と聞いたことがある気がする。 立ち上がり、俺の横に向かい椅子に腰掛けた。ふわりと彼女の香水が香る。きつすぎない匂いは、俺の好みだった。 きっと、淵師が使っているってのが一番の理由だけれど。 「いつ行きたい?」 「いつでも大丈夫だぜ、俺」 「そっか。じゃあ、今度の土曜日にどうかな。ついでにランチとか……あっ、いいや、なんでもないの」 「ま、待て、それいい! 俺、今のぴーんときた!」 「えっ?」 横に並ぶ淵師の腕を掴むと、彼女は顔を真っ赤にさせた。冷たい指先を温めるように手のひらを包む。 平常心だ、平常心。こうやって指先を包んでいるが、内心どうしたらいいか分からない。変な顔をしていないか心配だ。 「じゃ、じゃあ、それで」 淵師はそう言うと、椅子を乱暴に降りて、また作業へ戻った。 彼女の残り香を感じる。曲は終盤に差し掛かり、既に次の曲が始まろうとしていた。 まるで自分たちみたいだと、始まってもいない恋を讃えてしまう。 「……帰り、服買うか。俺」 どうする、緊張が止まらない。 とりあえず早く起きて、その日は髪をびしっと決めたいと思う。 (いつだってそこにいるんだって) |