戯言スピーカー | ナノ



 

目の前で平筆を滑らす彼女を見て、俺より年上なのに幼くて可愛いな、とか。ときどき肩を鳴らす姿も案外可愛いし華奢な体だなあ、とか。守ってやりたいなって思う。そうだ、それがぴったりだ。

冬休みに入った今、大学の施設内には人の姿はあまりない。まして、彼女だけのものと言ってもいいアトリエには、青春を謳歌している学生は入り浸らないものだ。

俺は理由もなくそこに行くのが好きだった。教授である淵師が、ただ真っ直ぐ見つめて絵を描く姿が何よりの目的。
毎日ぴんとくる勘を頼りに、やってくる。

平筆をパレットの上に置き、長い背伸びタイム。はあ、と息を吐いて、俺の方を見た。

「李典さんってばよく来るよね」
「俺、絵とかあんまり知らねえけど、あんたのファンってのは分かるからさ」
「ふふ、ありがとう」

絵の具で汚れたエプロンを脱いで、椅子にかける。イーゼルの下に敷かれた新聞を踏み、油などを倒さないように気を付けて、俺が座る椅子の横へ移動した。
がた、と音をたてて座ると、淵師は俺をじっと見つめてくる。

「でも、悪いよ。まして描いてるものは、油絵だし私の創造なんだから」
「臭いは慣れたから大丈夫だって。あんたの絵を見てると楽しいしな、俺」

本当は、二人だけでいたいってのが本音。
淵師に恋をしていると言うと、正直女々しくて嫌だ。
でも、愛してるとか言うと重たい。そんな、重い愛情を彼女に捧げるのも気が引ける。
両思いになったら、好きも愛してるも楽に言えるのだけれど、片思いとなれば言葉選びは慎重に、だ。親友の楽進だったら、一番乗りで想いを告げられるのだろう。
そういうときに、あいつが羨ましい。

(いや、でももし楽進が淵師に惚れたら駄目じゃねえか)

想いを伝えられてしまう。やっぱりほっとした。

午後から夕方にかけて、毎日取り組んでいる。昼ごはんは持参。しかし、持って来てすぐに食べるわけではない。
淵師は俺の分もいつも作って来てくれた。愛妻弁当みたいで嬉しい。いや、ほんと嬉しくてたまらない。

「食べたらまた描くのか?」
「うん。この冬休み中に完成させなきゃいけないからね」
「そうか。大変だなあ、淵師も」
「それはこっちのセリフ。本当、嫌なら帰っていいんだからね」
「おっと、帰らないぜ、俺」

淵師はピンクの弁当箱で、俺は青の弁当箱だ。わざわざ彼女の色違いを買ってきてくれたらしい。お揃いってのも意外と悪くないものだ。
二人で横に並んで食事をする。流れてる音楽はエレクトロニカだったか、そんな感じ。鳥の鳴き声が鳴いたかと思えば、いきなり金切り声が聴こえたりヴァイオリンの音色がやたらと綺麗だったり。俺が普段聴くような音楽とは全然違う。

きっと、頭の作りさえも違うんじゃないかって。

「淵師って家帰ったら何してるんだ?」
「あー、描きたい絵をスケッチしたり、買い物したり、あとは適当に」
「家でも絵を描かないといけないのかよ……。悪い、俺にはいつも成績悪かったからきついぜ」
「見るのは好きなのにね」
「それはあんただから、っと、いや、何でもない! 聞くな!」
「どうしたの……?」

口が滑ってしまい、慌てて後ずさる。
椅子から転げ落ちそうになった。淵師が心配そうに俺を見てくる。そんな目で見ないでくれ。自分が哀れに思える。

「まー、あれだ。俺の勘だと、あんたが絵を描くのを見てるといいことがあるんだぜ?」
「私の勘だと李典さんが大人になったとき、時間の無駄だったぜとか言ってそう」
「そんなことないって。信じてもらえてないけど、楽しいからよ」
「分かったから、悲しそうな顔しないで?」

そんな顔してたか、と不安になり、淵師から目を逸らす。
ぼうっと彼女を見つめている時間が増えた気がする。ふと、後ろにある作品を見つめた。
まだ、下塗りとラフらしく、俺には一面の肌色にしか見えない作品だった。

「冬休みの終わり、楽しみにしてるな」
「課題はしっかりしてきてね」
「わーかってるって」

淵師は、どうだか、と言いたいばかりに肩を竦ませてきた。肘で小突くと、悔しそうにこちらを見てくる。

好きも愛してるも言えないのがもどかしい。教授だから、と遠慮をしているのか。多分そうだ。別にいけないわけではない。
ただ他人の目からみたら、セクハラに見えてしまえば淵師はここに居られなくなる。それだけは避けたい。

「だから、冬休みが大事なんだよな、俺」
「休めるもんね」
「……ま、そういうことでいいけど」



(軽く挨拶して抱き締めたい)