欲望
若輩者のくせに、と陸遜はよく陰で言われている。本人は至って気にしていない振りをするけれど、代わりに毎日研鑽を積んでは「あなたほど努力をしてません」などと相手を褒めつつ謙遜をする。
そんな陸遜の焦げ茶色の髪を遠くから眺めつつ、両腕いっぱいに抱える荷物を書庫の卓上へ置いた。
ふう、と息をついて、格子窓から見える陸遜へ視線をずらす。今は季節での特徴をとらえているようだった。野鳥や雲の流れをじっくりと見ている。
何度か声をかけようかと思ったが、いささか気が引けた。真面目に勉強をしているのだ。私こそ、陸遜を見ていないで早く書物を片付けないと。
適当に預かった書物を並べ、次に使う人が選びやすいように並べる。棚へ置くのは簡単だ。それでいて、楽しい。街に出るたびに憧れる。ときどき装飾品などを売る店がある。――飯店の香ばしい匂いや、話屋によって団欒をしている人々の声にかこまれ、鮮やかな品物を置いているのだ。人々が目に留めるような配置。そういうのを考えられることが、羨ましい。よほどお金に余裕がある家での育ちか、もとより才能がある者でないとなかなか出来ないことだ。――こういう風に、上官に言われるがまま雑用をするのではなく。
「なまえ殿?」
「ひっ」
思わず情けない声が漏れ、同時に現実に引き戻された。私は今、夢の中で愛らしい町娘になっていた。戻ったことで、衣服はそれより上質でも、どうも見た目がそぐわないものとなった。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。窓越しから、あなたのお姿が見えたので」
「わざわざ来てくれたの?」
「はい。久しぶりに話せるのだと思うと、つい」
そう言って、陸遜は白い歯を覗かせた。これはまあ、なんとも。私はむず痒い気持ちになり、つま先でとんとんと床を蹴った。私も嬉しいよ。なんて、言うことはない。けれど、そんな自分を責めることはない。陸遜は言わなくても理解をしてくれる。相手の表情や仕草のひとつも見逃さないだろう。
「それにしても、何か楽しそうでしたね」
「何かあったんですか?」と、陸遜は続ける。私は彼との間にある絆を信じて、先ほどまで考えていた理想を語った。陸遜は静かに聞いてくれた。うんうん、と。ときおり、柔らかな笑みを見せて。
「なるほど、それは素晴らしい」
「そんな、素晴らしいというほどのことじゃ……」
どちらかというと、妄想と言うか。後ろめたい気持ちが溢れ、私は陸遜の肩を見た。
「いえ、とても良い夢です。むしろ、夢にしておくなんてもったいない」
「あはは、ありがとね」
「今度、殿に進言してはいかがですか? 店を持つことは許されなくとも、何かを飾るお許しは得られると思います」
「そんなそんな、自室でも飾っていろとか言われそうだよ」
思った以上に陸遜は私の話に乗り気になっていて、嬉しい反面困った。私は努力をするような奴ではない。殿に進言することさえ、面倒くさがる奴だ。だからいっこうに雑用止まりなのだ。夢を見るのは改装染まりで。うーん、上手くない。
「今度、殿に私の方から言ってみます」
▼△▼
後日、私は上官からの雑用に耐える女官から、書庫全般を任される女官へとなった。それを告げてくれたのは陸遜とよくいる呂蒙さまからで、「今後も陸遜のことを頼むぞ」と言われてしまった。
私は早速書庫へ赴き、ばらばらになった書物をどのように並べるか悩んだ。この仕事はある意味、陸遜……だけでなく、孫権さまからの命令のようなものだ。よく許してくれるものだ、と今でも疑問に思う。
「あぁ、ここにいましたか」
「陸遜……!」
背後から掛けられる声に振り向くと、陸遜は入り口の前で立っていた。薄暗く、光がほとんど差し込まない書庫に、一つの光がさしこんだようだった。
「あの、孫権さまに言ってくれたみたいで、本当にありがとう」
「いえ、お気になさらず。あなたの夢が少しでも叶うのでしたら、このくらい」
陸遜は微笑みながら言った。ほんの少し首を傾げて。あまりの眩しさに目をまっすぐあてられない。
「私も何か手伝えることはありますか?」
「えっ、そんなそんな、これ以上何かしてもらうなんて……」
「いえ、ここまで来たのです。邪魔でないのでしたら手伝わせてください」
ここまで陸遜がお願いをすることは滅多にない。まして、豪族生まれの貴族でもない、ただの女官に。すこし気恥ずかしくなり私は俯いた。
「お願い、します」
敬語になってしまったけれど、そのあとに陸遜の「はい」という声が聞こえたので満足だ。
私が指示をして、陸遜はその通りの書物を持ってきてくれるので、並べていく作業をした。今日ですべてが終わったわけではないけれど、すでに日が傾き始めたため、ここで中止だ。
陸遜はよく書物の場所を知っている。字がたて続けに並んだものを、たくさん持ってくるのだ。
「お疲れ様です、なまえ」
「お疲れ様。陸遜のおかげですごいはかどったよ」
「そう言っていただけると、やった甲斐があります」
本日何度見たかもわからない笑みを浮かべられ、ここまで本当にお世話になったなあと申し訳なくなる。何かした方がいいのだろうか。私程度の者が彼に与えられるものなんて、知人の可愛い女の子を教えることか、作業を抜け出すのにとっておきな道など、そんなものしかない。
「でも、どうしてこんなに尽くしてくれるの?」
陸遜だって、忙しいに決まっている。執務を溜めるか、午前のうちにあらかた終えておかないとここまで時間ができないはずである。
「お気付きになりませんか」
「何かあった?」
「……だいぶ、あなたと過ごしてきたつもりでしたが」
視線を下へ、さみしそうな顔をした。悔しそうな声だった。私はとっさに「してしまった」という気持ちになる。
「私の知る上の者は、あなたと関わっても損得しか考えないでしょう」
「損得……?」
「ですが、私はあなたと過ごしたいから今ここにいます。どういう意味か、わかっていただけませんか……?」
懇願するような瞳で見つめられ、言葉に詰まった。それは、もしかして。恋愛ごとに疎い私でもよく分かる。「あの」どうしよう、うまく言葉がまとまらない。私は彼と違って勉学に励まないし、頭もよく回らない。
「……すみません、回りくどい言い方でした」
謝られても、何を言っていいかわからず、私は無言で机の前で立ちすくんだ。前に陸遜がいて、彼もまた私の方を見ていない。変わることを恐れてしまう。また次に会うとき、私は陸遜と何をするのだろう。挨拶? 挨拶だけで、済むのだろうか。胸元に湧き上がる感情は知っている。もし彼の言う言葉が私の望むものなら、なんて答えよう。
「なまえ殿、こちらを見てくれませんか?」
うながされるまま、顔を上げた。陸遜は私を見て、笑った。
「あなたのことが、好きでした」
そう言って、陸遜は私の手首を掴んだ。熱を孕んだ手のひらは、まるで初めて触れられるような感触だった。知人の可愛い女性の柔らかい手でも、抜け道に続く道に生えるあんずの木の枝の硬さでもない。誇らしい気持ちになるようだった。
「突然でしたね……、ただ、この書庫の整理が終わったら、あなたと会える時間もへるような気がして、思わず」
「陸遜……」
早く、早く言わないと。私は手首を掴む陸遜の手を包んで、微笑んだ。
「私も、好き」
清々しいほどの気持ちが、私の胸に咲く。陸遜ははにかむと、手首に接吻を落とした。そのときに、びくりと震える肩も掴まれ、身体が優しく抱かれる。
首裏に手を回し、私の髪に指を通しながら陸遜は声を震わせて「ありがとう」と言った。
どうしてこの人は、こんなに優しいのだろう。
「あなたと、離れるのが嫌になってしまいました」
身を離され、そのときの陸遜は薄暗いここでも分かるほどに赤く、それでいて幸せに満ちた笑顔だった。頬にかかる髪をはらい、彼の手が私の輪郭をなぞる。
「くすぐったい」
「えぇ、そうでしょうね」
悪戯をする子供みたいな表情は彼の幼い面立ちをきわだたせる。私は胸に広がる暖かい感情に目を細め、また次に彼と改装をする書庫の完成体を思い浮かべた。まるで人が目に留めるような、優しい場所。日が当たらなくても、ついその場にやって来るのだ。
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