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憧憬


一国の軍師といえど、情はある。
特に私は周囲の人物曰くそうらしい(何やら煽られるとすぐ乗ってしまうだとか)。
ある日なまえは、曹操には感情があるのかと問いてきた。当たり前だ、と云うと、なまえは何故か不思議そうな顔をしていた。失礼な奴だとは思ったが、だからこそ感情のあるなまえらしいと思った。
私は、彼女に当たり前だ、と云ったものの、曹操殿が感情を昂らせているところを見たことがない。むしろ、当たり前というのは、曹操殿が感情を昂らせないことにあると、私はその日ずっと考えてしまった。


「そういうなまえは、己に感情があるのか?」
「え、はい。あります」
「……確かに、そうであるな。……子供故に流されやすいが」

ぼそりと囁いた声にもなまえは鋭い。そんなことないですよ、と彼女は怒ったが、まさしく今がそうなのだ。何故気付かない、凡愚め。
曹操殿がこの世から砂のように掴めることなく去り、彼の息子の曹丕殿が、今の魏を統一している。しかし、曹丕殿が亡くなればどうなるのだろうか。なまえも誰を心の在り処とするのだ。

「なまえよ、お前は己の才に驕るでないぞ」
「胸に刻みつけておきますね。ですが、司馬懿殿こそ、売られた喧嘩をすべて買わないように」
「ば、馬鹿め! 私の心配などせずともよいわ!」

必死に弁明したときの、なまえがくすくすと笑う姿が未だに焼き付いていた。


***


着々と魏の将兵らに、人々に、才を過信する者たちに、曹一族は廃れたのだということを知らしめる。反感が生まれていることは私の耳にも届いていた。曹操殿に、曹丕殿を崇拝していたなまえが酷く落ち込んでいることと共に。

なまえの執務室の前に立つ。
周囲の者に心配をされたが、まったく無駄なお節介だ。元は友であった彼女との再会に水を刺すような真似はされては困る。

「なまえ、入るぞ」

返事は、予想通りあるわけもない。鍵が開いているため、扉をゆっくり押し出すと、そこからは意外と、明るい光が差し込んできた。

「……あ、司馬懿、殿?」
「久方振りだな、なまえ」

こほんと咳払いをする。
なまえはいつもと変わらず、いや、以前と変わらない。彼女は笑顔でこちらを見ていた。なまえの姿は特に変わっていなかった。私も変わったかと云われれば変わらないが、彼女は女人なのだから少しは女らしくなるかと思えば……。

「今、お茶をいれますね」
「む、あ、あぁ。ご苦労」

しかし、態度は随分と落ち着きを払っていた。なまえの大好きな国を、変えようとしているのに。彼女はいつか、淘汰されるかもしれないのに。多少ながらも罪悪感がわいてしまった。
お茶をいれるなまえの後ろ姿を見つめた。細くなったのではないか、と思ったつもりだが声に出していたようだ(私もその点では年をとったものだ)。
私の問いに、彼女は小さい声で笑う。

「そんなことありませんよ」
「……そう、か?」
「さて、お茶をどうぞ」

しなやかな動きは乱れもない。呼吸も、行動も、すべて大人になったように感じる。置いてかれた気分が私を深く襲った。胸を抉るように、ただ目の前にいるなまえが頭で別人に塗り替えるようだった。
何か、あのときのなまえだったことを思い出させる会話をしようと思った。

「なまえ、は、夏侯覇のことをどう思っておったのだ」
「仲権殿、ですか」

これは、墓穴を掘ってしまった。
まさかなまえが夏侯覇とそこまで仲が良いとは思っていなかったのだ。視線を落とし、お茶を置いたまま床に膝をついていたが、彼女は私と向き合うように椅子に腰掛ける。

「すまぬ、嫌なら云わんでよい」
「いえ、そのような訳では……。でも、やはり思い出したくはないですね。彼は確かに年下ですけど、親の世代から親しかったので」
「……そうだったな」

親の世代、という言葉が引っかかった。
きっと夏侯淵や夏侯惇のことを云っているのだろう。死者に取り憑かれる者とはあまり関わりたくはなかったが、はたしてなまえがそうなのか。ただ情が深いだけなのかもしれない。

「情、で思い出したが……」
「はい」
「昔、曹操に感情があるのかと問いたことがあったな、なまえ」

そのとき、なまえななぜか目を丸くした。そして、微笑む。過去の話でも、していい話とその逆があるようだ。私にももちろんあるが。主に家族のことで。

「曹操殿には、感情がありましたね」
「お前にはないというのか?」
「よく、分からないです」
「ふん、馬鹿めが……」

腰を上げて、なまえの手を引いた。痛々しいその姿は、見ていて私の無力さを引き立てるから、あまり良い気分ではない。
手のひらは暖かかった。指先まで熱があり、よく触れる己の手とは柔らかさが違い、確かにここに女のなまえがいるのだと自覚した。いや、自覚してしまった。
急に恥ずかしくなってきた。それでも、手は離さない。

「ど、どうしました?」
「……黙って聞いていろ、なまえ」
「は、はい……」
「……感情に素直になれ。それと、もっと食わんか、この馬鹿者が。だっ、大体、なんだこの手は! 年頃の女の肉付きではないだろう!」
「あ、あの」
「お前から笑顔をとったら何が残るというのだ。久方振りに会いにいけばじめじめとした空気……私に対しての拷問か! この凡愚めが!」
「あのっ、司馬懿殿!」

なまえは大きな声で笑い、私の手を両手で包んだ。何がおかしいのだ、となまえから手のひらを揉まれるのが気恥ずかしくて、聞いた。

「いえ、司馬懿殿は変わってないなあ……なんて。ふふ、ありがとうございます」
「……そっ、そうか。ふん、礼には及ばぬ」
「私も、感情に素直になってみますね。あ、なんだかお腹空いてきたかも。良ければ何か食べに行きません?」
「仮にこの国を統一していると云っても良い私に、平然と食事に誘うなど、お前こそ変わっておらんではないか」

しかし、悪くない、と。立ち上がるなまえの身を抱き寄せた。

「……なまえは私を傍らで支える友に、元通りだろう」
「また隣にいても?」
「当たり前だ」

むしろ、頼むぞ。と、なまえの瞼に唇を落とすと、はっとなり、すぐに謝った。

「な、い、今のは何でもない! 友達としての、そのっ、証だ!」
「は、はぁ……」

嫌そうな顔でこちらを見てくるものだから、なまえの先を歩く。待ってください、などと後ろからついてくる姿が、ひどく懐かしかった。
頬が緩むのは、多分、かつての友を取り戻したからだ。なまえの部屋から飛び出すと、廊下は澄んだ空気に包まれていた。射し込む陽光が輝かしく点々と光り、景色がやけに綺麗に見えた。

「私のお勧めは街に降りてすぐの饅頭屋ですよ」
「む、そこでよい」
「饅頭好きですものね」
「ふん」

なまえと並び、歩く。家族は皆、なまえを気に入ってるのだから、怪しまれることはない。仮に怪しまれても、しつこく質問をされるだけだ。主に次男坊に。

横を歩く彼女を見て、少し、嬉しくなったのは、言えるわけがない。




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